欧州連合(EU)の排出量取引制度(ETS)をめぐる内部対立が激化している。
2026年3月、スペイン・デンマーク・フィンランド・ルクセンブルク・ポルトガル・スロベニア・スウェーデン・オランダの8カ国が、EUの主要な気候政策の根幹であるEU ETSを守るよう欧州委員会に要請した。
一方、中東情勢に起因するエネルギー価格高騰を背景に、イタリアなどからはETSの一時停止を求める声も上がっており、欧州のカーボンプライシング政策は正念場を迎えている。
8カ国は、EU ETSが「欧州気候政策の背骨」であるとして、その制度的安定性を損なうあらゆる変更に反対する立場を鮮明にした。デンマーク・フィンランド・ポルトガル・スペイン・スウェーデンの5カ国は共同書簡に署名し、ETSの弱体化が化石燃料からの脱却を遅らせ、低炭素技術への投資家の信頼を損ねると警告した。
さらにルクセンブルク・スロベニア・オランダを加えた8カ国は「非公式文書(ノン・ペーパー)」を回覧。ETSの停止や根本的な変更は「非常に懸念される後退」にあたると明言し、脱炭素化に先行投資してきた企業を著しく不利にするとして、制度の根幹維持を訴えた。
EU ETSは、発電所や重工業などに対してCO2排出量に応じた排出枠の購入を義務付けることで汚染にコストを課す仕組みであり、EU気候戦略の中核を担ってきた。8カ国連合は、現行制度が2040年に排出量90%削減というEU目標達成に不可欠な価格シグナルを産業界に与え続けていると強調した。
8カ国がETS防衛を訴える一方、欧州カーボン市場は逆方向の圧力にさらされている。2026年3月17日(火)、EU ETSのベンチマーク契約価格は約5%下落し、1トンあたり65.41ユーロ(約11,980円)と2025年4月以来の安値を記録した。下落幅は1トンあたり3.59ユーロ(約658円)にのぼった。
価格急落の直接的な引き金は、欧州委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン(Ursula von der Leyen)委員長による市場介入の示唆だ。同委員長はエネルギーコスト抑制に向けた対応策として、追加排出枠の供給拡大と市場安定化リザーブ(MSR)の調整を検討していると発言した。市場参加者はこの発言を排出枠の過剰供給リスクとして解釈し、投機ポジションの解消を加速させた。
今回の欧州カーボン市場の混乱は、2026年2月28日に勃発した米国・イスラエル対イランの軍事衝突を直接の起点とする。ホルムズ海峡の封鎖によりカタールの液化天然ガス(LNG)生産が停止し、世界の原油供給の約20%が途絶。
欧州のベンチマーク天然ガス指標であるオランダTTFガス先物は1メガワット時あたり50〜65ユーロ(約9,150〜11,900円)と直前週から約2倍に跳ね上がり、ブレント原油は1バレルあたり110ドル超(約17,490円)へ急騰した。欧州委員会によれば、開戦後わずか2週間でEUの石油・ガス輸入コストは60億ユーロ(約1兆980億円)増加した。
この事態を受け、欧州委員会は複数の緊急措置を検討している。具体的には、国内産業への財政支援を可能にする国家補助規制の緩和、エネルギー税の引き下げ奨励のほか、ETSへの介入として追加排出枠の放出によるカーボン価格の引き下げも候補に挙がっている。また、フォン・デア・ライエン委員長はガス価格上限の設定も選択肢として残しており、こちらはETS制度に直接影響を与えない手段として一部から支持されている。
今後の焦点は、3月19〜20日にブリュッセルで開催されるEU首脳会議だ。
エネルギー価格対策と気候政策改革が主要議題に据えられており、ETS擁護派8カ国とイタリア・スロバキア・チェコ共和国などの懐疑派が激突する見通しとなっている。
炭素市場の支持者は、制度の安定的な規制枠組みこそが低炭素投資の継続とEUの長期排出削減目標の達成に不可欠であると訴えており、目先の経済圧力を前に欧州の脱炭素路線がどこまで堅持されるか、その帰趨が問われている。
EU ETSの一時停止論は、日本のGX-ETSにとって対岸の火事ではない。
国際エネルギー価格の高騰が排出量取引制度への政治的圧力を高めるという構図は日欧共通であり、排出枠の調達コストを中長期の設備投資計画に組み込んでいる国内企業にとっては、欧州市場の価格ボラティリティが将来のカーボンプライシング環境の先行指標となる。
EU ETSの制度的後退が現実となれば、カーボンプライシングの国際収斂に向けた信頼性が大きく損なわれ、カーボンクレジット調達を進める日本企業の投資判断にも影響が及ぶ可能性がある。