カーボンクレジット市場が自然保護の「切り札」として期待を集める一方、その根幹をなす技術的要件が、生物多様性の保全目標と構造的に相容れないことを示す論文が、2026年3月24日付で学術誌ネイチャー・レビューズ・バイオダイバーシティ(Nature Reviews Biodiversity)に掲載された。
シンガポール国立大学などの研究チームによるこの論考は、ボランタリーカーボンクレジット市場への過度な楽観論に対し、強力な実証的歯止めをかけるものとして国際的に注目される。
著者のイーウェン・ゼン(Yiwen Zeng)、アーカシュ・ランバ(Aakash Lamba)、ホン・チェン・テオ(Hoong Chen Teo)、リアン・ピン・コー(Lian Pin Koh)の4氏は、自然由来のカーボンクレジット発行に不可欠な3つの技術的要件、追加性、カーボンリーケージ防止、永続性が生態系保全の論理と根本的にずれていると論じる。
追加性の観点から見ると、カーボンファイナンスなしでは保護が実現しないことを証明できなければカーボンクレジットは発行されない。この要件は逆説的に、現時点で直接的な開発圧力にさらされていない高品質の原生林を「対象外」とする。生態学的価値が最も高い森林ほどプロジェクトから排除されるという構造的矛盾だ。
カーボンリーケージ防止と永続性の要件についても、炭素会計の精度を高める上では不可欠であるものの、種の移動、撹乱レジーム、非線形な生態系ダイナミクスといった生物多様性固有の複雑性には対応できないと論文は指摘する。
さらに深刻なのがコモディファイゼーション(商品化)リスクである。自然をカーボンシンクとして一義的に位置づけることで、コベネフィット(Co-benefit)としての生物多様性が形式的な「チェックボックス」扱いに矮小化される危険性が高まると著者らは警告する。
論文は具体的な事例として、中国・四川省における森林カーボンクレジットプロジェクトの分析を引用する。プロジェクト実施後、農業・畜産圧力が高い地域を中心に、森林生物多様性の生態系サービス価値が55.1%低下したことが示された。
また、炭素収入が新規造林に限定される制度設計の下では、土地所有者が既存の成熟林を早期に伐採し、カーボンクレジット対象となる「新しい造林」を開始する逆インセンティブが生まれうることも指摘された。
加えて、炭素は「1トン=1トン」と互換的に計量できるのに対し、生物多様性は地域固有かつ多次元的な概念である。この本質的な非互換性を無視して、生物多様性を炭素市場と同一の標準化フレームに押し込もうとすること自体が生態学的整合性を損なうと論文は強調する。
著者らは、カーボンクレジット市場単独での生物多様性保全に限界があることを認めた上で、市場メカニズムをより広範な枠組みに統合することを提言している。
第一に政府規制の整備。環境的整合性と公平性を確保するための規制フレームワークを事前に確立することが不可欠とされる。
第二にジャリスディクショナル・アプローチ(管轄域規模のアプローチ)。個別プロジェクトを超え、景観スケールでの管理に移行すること。
第三にブレンデッドファイナンス(混合金融)。市場メカニズムを、コミュニティベースの仕組みや規制的な資金調達と組み合わせ、長期的な生態系保護を担保することである。
研究チームは「自然由来のカーボンクレジットプロジェクトへの楽観論は、その限界への理解によって慎重に制御されなければならない」と結論づけている。
日本において、REDD+や二国間クレジット制度(JCM)を通じた自然由来カーボンクレジットの活用は政策的に推進されているが、本論文の知見は「コベネフィット」の表示が実態を伴っているかを問い直す契機となる。追加性要件の設計如何によっては、日本企業が購入するカーボンクレジットが保全価値の高い森林を意図せず排除している可能性があり、今後の方法論審査やデューデリジェンスにおいて生物多様性の実質的評価を組み込む対応が急務となろう。