欧州委員会は2026年4月1日、排出量取引制度(ETS)の安定性と予測可能性を強化するための最初の具体的措置として、マーケット・スタビリティ・リザーブ(Market Stability Reserve、以下MSR)の改正案を発表した。
フォン・デア・ライエン(von der Leyen)欧州委員会委員長が同年3月の欧州理事会で表明していた方針を受けた措置であり、EU ETSの抜本的な改革には踏み込まない「軽微な修正(クイックフィックス)」と位置づけられる。
今回の改正案の要点は、MSR内に保有される排出枠が400百万トンを超えた場合に発動される「自動無効化メカニズム」の停止である。
現行ルールのもとでは、MSRの保有量が同閾値を超えた分は毎年恒久的に消却され、長期的な需給逼迫を担保する仕組みとなっていた。改正案はこの消却を停止し、超過分の排出枠を「バッファー」として温存することを提案する。温存された排出枠は、将来的に市場で極端な供給不足や価格急騰が生じた際に放出できる流動性の予備として機能する。
欧州委員会によれば、MSRが2019年に運用を開始して以降、2024年末までに累計32億トン分の排出枠が無効化されてきた。同委員会は1990年〜2024年の間にEUの国内排出量が39%削減された一方で、経済規模が71%成長したとも強調しており、EU ETSの脱炭素化への貢献を正面から評価している。
市場参加者の一部は、欧州委員会が新たな排出枠を即座に市場へ追加投入する、より積極的な介入を予想していた。しかし今回の提案は新規放出を行わず、ルールに基づく設計(rules-based design)の枠組みを維持しながら、MSRの緩衝機能を拡張するにとどまる。
欧州委員会はこのアプローチについて、エネルギー価格の高騰や地政学的緊張を背景に事業者が直面する不確実性を軽減しつつ、市場ベースの価格形成メカニズムの完全性を損なわないものと説明している。改正案は「将来数十年にわたる潜在的な供給逼迫に対してMSRをより適切に備えさせるもの」とも位置づけられた。
改正案はこれより欧州議会および理事会に付託され、通常立法手続き(共同決定手続き)に基づき採択が進められる。
今回のMSR改正は単独措置にとどまらず、2026年7月に予定される包括的なEU ETS見直しの先駆けと位置づけられている。7月の見直しでは、来たる10年間においてMSRを「適切な状態」に維持するための長期的調整に加え、炭素除去(CDR)の役割拡大やETSの適用範囲拡張など、より根本的な論点が俎上に載る見通しだ。
EU ETSのMSR改正は、カーボンプライシング政策が「排出枠の希少性維持」と「エネルギーコスト抑制」という二律背反のジレンマに直面していることを改めて示している。
日本においてもGX-ETSの本格稼働と制度設計の精緻化が続くなか、MSRに代表する市場安定化メカニズムの設計思想は参照値として重要度を増す。
特に2026年7月のEU ETSの包括見直しで炭素除去(CDR)の扱いがどう着地するかは、日本のカーボンクレジット市場設計にも直接示唆を与える可能性があり、注視が必要だ。
参考:https://ec.europa.eu/commission/presscorner/detail/en/ip_26_666