国際エネルギー機関(International Energy Agency, IEA)は2026年5月18日、報告書「Financing the Modernisation of Power Systems Beyond Coal」を公開し、東南アジアにおける石炭火力の早期廃止を支援するカーボンクレジット手法「トランジションクレジット」の市場展望を示した。
IEAは、トランジションクレジットがボランタリーカーボンクレジット市場で大規模需要を獲得する可能性は限定的であり、需要主体はコンプライアンス市場およびパリ協定6条2項の長期協定になるとの見解を提示した。
トランジションクレジットとは、石炭火力からの排出削減成果に対して発行されるカーボンクレジットを指す。個別プラントの早期廃止に伴う排出削減、あるいは電力システム全体の排出原単位低下を対象とする2系統が存在し、現時点で実装が先行するのは前者である。
ベラ(Verra)が策定した方法論VM0052は、フィリピンのサウスルソン火力発電所(South Luzon Thermal Energy Corporation)でパイロット適用が進められており、2031年から2040年にかけての早期廃止と再エネ代替によりカーボンクレジット収益が見込まれる。
世界の既存石炭火力が標準的な耐用年数と稼働率で運転を継続した場合、2100年までの累積排出量は330Gt-CO2に達する。これは過去稼働した全石炭火力の累積排出量を上回る規模である。
このうち発展途上アジア地域だけで280Gt-CO2、世界の石炭関連排出見通しの85%超を占める。同地域は2000年以降1,450GW超の石炭火力を新設しており、2024年時点で世界の石炭火力容量の約4分の3を保有する。設備の約80%が稼働20年未満であり、東南アジアの若い石炭火力は長期的な排出リスクを構造的に内包している。
IEAが提示したAPS(Announced Pledges Scenario、公表政策シナリオ)では、稼働中の石炭火力に対する4つの排出削減策。早期廃止、用途転換、CCUS改修、低排出燃料との混焼により2050年までに累積140Gt-CO2の削減が可能とされる。このうち用途転換が削減量の約半分、早期廃止が約45%を占め、両者が中核戦略となる。
東南アジアでAPSを達成するには、2050年まで年間約200億ドル(約3兆円)の投資が必要となる。うち70%は太陽光と風力による石炭代替向けである。
ただし、石炭火力1GW分の発電電力量を代替するには、陸上風力で1.5〜2GW、太陽光で3〜4GWの設備容量が必要であり、蓄電池や他の安定電源との組み合わせが前提となる。電力システムの信頼性と供給力確保を維持しながら脱石炭を進める難度の高さを、IEAは繰り返し強調している。
IEAは、トランジションクレジットがボランタリーカーボンクレジット市場で大規模需要を獲得しにくい構造的要因として複数の点を挙げる。
第一に、評判リスクと基準の進化に伴う企業のクレジット利用への不確実性。第二に、価格の不透明性と2030年以降の市場可視性の欠如。第三に、政策反転リスクが買い手の支払い意思額を抑制している点である。
一方で、需要源として最も有望視されるのはコンプライアンスカーボンクレジット市場である。各国政府が規制遵守義務の履行手段としてトランジションクレジットの利用を認める場合、安定的かつ大規模な需要が形成されうる。これにパリ協定6条2項に基づく長期協定、および購入者連合(buyer coalition)によるプーリングが補完的に機能する構図をIEAは描いている。
報告書は、トランジションクレジットの環境十全性を担保する2つの論点を強調する。
ひとつは追加性である。早期廃止がカーボンクレジット収益なしには同時期に実現しないことの立証が前提となるが、再エネコストの低下により経済的追加性の余地は縮小しつつある。早期廃止が市場経済性のみで進む段階に入った石炭資産にカーボンクレジットを発行することは、本来発生する廃止に補助金を上乗せする結果を招きかねない。
もうひとつはカーボンリーケージである。石炭火力廃止により失われた発電量が他の化石燃料電源、新規石炭投資、あるいは国際石炭貿易の変化によって代替された場合、排出削減は実体を伴わない。IEAは、再エネによる直接代替率の高さが最大の安全装置だと位置づけ、残余リーケージは定量化と控除を求めている。
もっとも、追加性とリーケージの両論点をプロジェクト単位で厳格に運用しようとすれば、方法論の複雑化とコスト上昇は不可避であり、これが結果的に買い手の支払い意思額をさらに圧迫するという循環的な課題も指摘される。
IEAの今回の整理は、トランジションクレジットの位置づけを「VCMの新興プロダクト」から「コンプライアンス/パリ協定6条2項の対象資産」へと再定義する転換点として位置づけられる。
VCMでは品質懸念と需要側の制約が同時進行しており、石炭火力廃止という政治的・財務的に大規模なアセットを支えるだけの市場規模は構造的に成立しにくい。IEAという最上位の権威機関がこの構造的限界を明示したことの意味は重く、今後の方法論開発・買い手開拓の戦略は、規制対応需要と政府間協定の枠組みを軸に再構成される可能性が高い。
この見立てが正しければ、トランジションクレジットの設計思想そのものが、企業の自主的気候対応の文脈から、国家コミットメント履行と電力システム計画の文脈へと移行することになる。ボランタリー市場の枠内で議論してきた事業者にとっては、戦略軸の再考を迫られる局面である。
参考:https://www.iea.org/reports/financing-the-modernisation-of-power-systems-beyond-coal