2026年5月、オーシャン・コンサーバンシー (Ocean Conservancy) と環境防衛基金 (Environmental Defense Fund, EDF) を中心とする米欧の環境NGO9団体は、エンジニアド海洋CDR (mCDR) のフィールド試験に関する10項目の合意勧告を公表した。倫理規範遵守、先住民・地域コミュニティの権利保護、独立MRV、オープンアクセスデータ、公的資金優先等の原則と並んで、最も論争的な勧告として「mCDRトライアルからのカーボンクレジット発行を行うべきではない」と明示した。
文書はオーシャン・コンサーバンシーとEDFのほか、全米野生生物連盟 (National Wildlife Federation)、国際海洋酸性化対策同盟 (International Alliance to Combat Ocean Acidification)、米国地球物理学連合 (AGU)、プリマス海洋研究所 (Plymouth Marine Laboratory, PML)、オセアナ (Oceana)、オーシャン・ディフェンス・イニシアティブ (Ocean Defense Initiative)、オーシャン・ファウンデーション (The Ocean Foundation) の連名で出された。海洋関連の主要環境NGO群が単一文書に署名した点は、規範形成への影響力という観点で看過できない。
オーシャン・コンサーバンシー気候変動担当副社長で元米ホワイトハウス気候・エネルギー・環境・科学担当副所長のファティマ・キャンデス・バルシング博士 (Fatima Candace Vahlsing) は「気候変動は海洋にとって最大の脅威であり、炭素汚染への緊急対応と、海洋生態系および海洋に依存する人々の堅牢な保護を両立させなければならない」と述べた。
10勧告は (i) 倫理・社会的セーフガード、(ii) 責任あるフィールド試験、(iii) 公的資金を通じた信頼構築の3層構造で構成される。
倫理・社会面では、アスペン研究所 (Aspen Institute) の「mCDR研究行動規範」やAGUの「気候介入倫理枠組み」等、既存の倫理規範への自発的遵守を求めた。先住民・地域コミュニティ・漁業者の権利保護では、自由・事前・情報に基づく同意 (Free, Prior, and Informed Consent, FPIC) を原則とし、潜在的に影響を受けるコミュニティが事業を拒否する権利を明示している。
科学・運営面では、生態系・社会的リスクの低さの実証、段階的スケールアップ(ステージゲート方式)、独立MRVの利用、オープンアクセスデータの提供を要請した。利益相反回避の観点では、独立MRV事業者への報酬を「事業の成功や mCDR 手法の検証結果」ではなく「業務遂行プロセス」に紐付けるべきと明記した点が踏み込んでいる。
資金面では、公的資金の優先、ベースライン構築と長期評価への財源確保、そして本勧告群の中核ともいえる「フィールド試験段階でのカーボンクレジット発行禁止」が並ぶ。
10番目の勧告は、独立した査読科学が頑健なMRVを実証し、カーボンクレジットが高インテグリティ基準を満たせるようになるまで、企業・資金提供者・研究チームは早期のカーボンクレジット販売を回避すべきと結論づけた。NGO側の論理は「未熟な段階での発行は将来のカーボンクレジット市場の整合性を毀損し、mCDR手法そのものへの不信を招く」というものである。
しかし、この勧告は現在の mCDR スタートアップが採用する資金調達モデルの根幹と直接衝突する。
先進的市場確約 (Advance Market Commitment, AMC) や、プレパーチェスカーボンクレジット、エクスアンテカーボンクレジット販売は、フィールド試験段階で資本市場から資金を引き出す主要な経路として機能してきた。これら経路を遮断したまま「公的資金を優先せよ」と求める構図は、政府の mCDR 研究予算が現実には必要規模に達していない以上、研究開発の停滞を招きうる。
EDFとオーシャン・コンサーバンシーがともにワシントンへの政策影響力を持つ団体であることを踏まえれば、本勧告は米連邦・州予算における mCDR 研究予算配分議論に対する政策的レバーとしての性格も併せ持つ。
NGO勧告は法的拘束力を持たないが、ボランタリーカーボンクレジット市場側のレジストリ・認証機関は、海洋分野の主要環境NGOの規範表明を方法論承認の判断要素として無視できない。除去系カーボンクレジットに特化した認証機関は近年、海洋アルカリ度強化 (OAE) や直接海洋回収 (DOC) 等の方法論承認を進めてきたが、フィールド試験段階のカーボンクレジット発行を前提とするこれら認証機関の運用は、本勧告と正面から対立する。
一方で、勧告擁護側は「未熟なMRVで発行された除去系カーボンクレジットが市場に流入すれば、エクスポストカーボンクレジット市場全体の信用を損なう」と主張する。ICVCMによるコアカーボン原則 (CCPs) 適用厳格化との連動を踏まえれば、本勧告の方向性が中期的に市場主流派に取り込まれる可能性も否定できない。
本勧告はあくまで非政府団体の合意文書であり、各国規制当局・国際機関の決定に直接拘束力を持つものではない。しかし合意団体の規模と発言力を踏まえれば、米国における連邦・州レベルの規制設計、ロンドン議定書下の海洋肥沃化規制議論、さらにはパリ協定6条4項下での海洋系手法の方法論承認等に対する間接的影響は無視できない。
なお本勧告はエンジニアド mCDR(人為的介入による海洋CO2隔離能力の強化)を対象とし、エコロジカル mCDR(塩性湿地・海草藻場・マングローブ等のブルーカーボン保全・再生)は対象外である点に注意が必要である。両者は規制・倫理・科学的不確実性のいずれの観点でも異なる位相にある。
本勧告は海洋ガバナンスと社会的ライセンスの観点で重要な規範形成だが、商業化実態との乖離が大きい。
エクスアンテ販売・AMC経路を実質的に否定しつつ「公的資金を優先せよ」と求める構図は、政府の mCDR 研究予算が現実に必要規模に達していない現在、フィールド試験そのものを停滞させるリスクを内包する。NGO側が指摘する「未熟な段階での発行が市場の整合性を損なう」という懸念は、CCPs適用厳格化や独立MRVプロトコルの強化で対応可能な技術的課題であり、カーボンクレジット発行禁止という一律措置で対応すべき問題ではない。
参考:https://oceanconservancy.org/wp-content/uploads/2026/05/eNGO-consensus-statement-v2.pdf