欧州委員会(European Commission)が、EU排出量取引制度(EU ETS)における産業向け無料排出枠の拡大案を策定していると、ロイター通信が報じた。2026年から2030年にかけて、鉄鋼・セメント・化学等のハード・トゥ・アベイト産業に対して約40億ユーロ(約7,400億円、47億ドル相当)規模の追加無料枠が付与される見通しで、6月までに最終案が確定する見込みである。
現行のEU ETSは、施設からの直接排出のみを基準に企業の無料排出枠を割り当てている。今回の改定案は、購入電力に紐づく間接排出を割当計算の対象に加える点が技術的な核心である。
この変更により、電力多消費型のセクターを中心に、追加の無料排出枠が交付されることとなる。欧州委員会の内部文書によれば、2026-2030年の期間中、産業界全体で約40億ユーロ相当の追加無料枠が発行され、これは同額のEUA(EU排出枠)取得コスト削減を意味する。
今回の方針転換の背景には、加盟国および産業界からの強い政治的圧力がある。
鉄鋼、セメント、化学といった重工業セクターは、エネルギー価格の高騰と炭素コストの累積が、域外、特に中国や米国の競合との価格競争力を毀損していると主張してきた。ビジネスヨーロッパ(BusinessEurope)など産業界のロビー団体は、当初2034年までに完了予定であった無料枠の段階的廃止スケジュールの再考を要求していた。
加盟国側でも、域内投資の流出(カーボンリーケージ)と経済成長の停滞への警戒が強まっており、欧州委員会は「既存の柔軟性の枠内で産業界の懸念に対応する」と内部文書で位置づけている。
本件で編集デスクが最も注視するのは、EUA価格の構造的下押しと、それが除去系カーボンクレジット市場に与える間接的な影響である。
無料枠の追加供給は、市場全体の有償排出枠需要を抑制する。EUA価格が現行水準から軟化すれば、企業の追加削減投資の限界費用シグナルが弱まり、結果として自主的な除去系カーボンクレジットの購入インセンティブも相対的に低下する可能性がある。
特にEU域内では、ETSへのCDR組み入れに関する政策議論が並行して進んでおり、本件が将来的なETSとボランタリーカーボンクレジット市場の接続論議に影響を与え得る点は見逃せない。EUA価格の弱含みは、ボランタリー市場側の高品質除去系カーボンクレジットへのプレミアム形成を遅らせる方向に働く。
一方で、無料枠拡大はカーボンリーケージ防止策として正当化されるとの反論もある。CBAM(炭素国境調整措置)が本格運用に至るまでのブリッジ措置と捉えれば、無料枠の段階的廃止スケジュールが多少後ずれしても、EUの2040年温室効果ガス(GHG)90%削減目標との両立は可能だとの見方も成り立つ。
ハード・トゥ・アベイト・セクターにとっては、短期的な負担緩和となる。ただし、EU側は「企業は引き続き低炭素技術と排出削減への投資を期待される」と内部文書で釘を刺しており、無料枠の拡大が削減義務の緩和を意味するわけではない構造となっている。
本提案は2026年6月初旬までに正式に提示され、最終的に2040年に向けたEU ETSの大規模見直しの一環として組み込まれる予定である。
本件はEUの気候野心の後退ではなく、産業競争力との均衡を図る現実主義的調整と捉えるべきである。注視すべきはむしろ、EUA価格の構造的下押しが除去系カーボンクレジット市場の価格形成に与える二次的影響であり、ETS-VCM接続論議の進行と合わせて中期的な市場シグナルを読み解く必要がある。
ETSの設計議論にこの「現実主義的調整」の論理が輸入されるリスクと機会の双方を、今から想定しておくべきである。