欧州を拠点とするシンクタンク、ERCST(European Roundtable on Climate Change and Sustainable Transition)は5月20日、BloombergNEF、コンパス・レクセコン(Compass Lexecon)と共同で「2026年版 EU ETSの現状報告書(2026 State of the EU ETS Report)」を公表した。EU ETSが環境目標達成手段から産業転換戦略の中核へと性格を変えつつあるとし、2026年7月15日までに欧州委員会が提出予定のEU ETS見直し案に向けた論点を整理した。
報告書は、EU ETSが2030年目標である2005年比62%削減のうち既に半分以上を達成し、検証排出量は引き続きキャップを下回っていると評価する。2025年のEU ETS対象排出量は前年比約1.3%減と削減ペースは鈍化したが、これは再生可能エネルギー比率が47%に達したことに伴うガス火力でのバランス調整が主因であり、ETSの枠組み自体の機能不全ではないとする。
一方で、産業競争力への懸念がEU気候政策議論の中核に位置するようになったと指摘する。EUA価格の上昇、フリーアロケーション規則の厳格化、CBAMによるフリーアロケーション段階的廃止の組み合わせが、エネルギー集約産業のコンプライアンスコストを押し上げている。報告書は「産業危機」という表現が誇張ではないとし、フェーズIVにおける年平均コンプライアンスコストが電力部門で350億ユーロ(約6兆4,000億円)、エネルギー集約産業で76億ユーロ(約1兆4,000億円)を超えたとの試算を示した。
2025年のEU ETS平均価格は約85ドル/トン(約1万3,500円/トン)で、中国、カリフォルニア州、韓国、ニュージーランドなど他の主要排出量取引制度を大きく上回る水準が続いている。フリーアロケーションや間接費補償を考慮した実効カーボンコストで比較しても、EUは対象事業者にとって最も負担の重い管轄圏の一つにとどまる。
論点はクレジット品質とCDR統合論にも及ぶ。
2025年12月にEU理事会が合意した2040年気候目標(1990年比90%削減)には、ハードトゥアベイト部門の残余排出量を相殺するため、EU ETSに恒久的な国内炭素除去(CDR)を組み込む規定が含まれた。2036年以降は国際クレジットの最大5%活用も認められる。報告書は、2026年7月までに欧州委員会が負の排出(BECCS、DACCSを含むがこれらに限らない)をEU ETSに統合する方法に関する報告書を公表する予定であると整理した。
英国は既に先行している。英国当局は2025年7月、技術的炭素除去を2029年から英国ETSの対象に組み込む方針を確認し、2028年に実施規則を策定する。除去枠の導入はグロスキャップを変更せず、フリーアロケーションまたはオークション対象となる枠を置き換える形で行われる。EUとの制度連結交渉が進む中、両ETSの設計上の差異は段階的に縮小しつつある。
ただし、CDR統合がEU ETSの価格形成や環境一貫性に与える影響は未確定の領域が多い。報告書は、除去クレジットの供給拡大がより厳格化されるキャップに伴う価格上昇を相殺し、EUの脱炭素化を促進する可能性を指摘する一方で、緩和努力からの逃避(mitigation deterrence)を回避する厳格な環境規定が前提となると留保を付した。
CBAMとフリーアロケーション段階的廃止の影響試算も示された。2030年時点でアンモニア生産においてフリーアロケーションが全廃された場合、化石燃料ベースのプロセスでもEU ETS関連コストはほぼ3倍となり、1トン当たり総コストは20%超増加する。鉄鋼の高炉・転炉プロセスではEU ETS関連コストが約8倍となり、総コストは40%近く上昇する見込みである。しかし、緑水素ベースの脱炭素アンモニアは化石燃料ベース比で約40%、緑鉄鋼は約50%高コストとなる試算であり、公的支援や技術コスト低減なしにはフリーアロケーション廃止だけでは脱炭素の事業性は成立しないと結論づけた。
市場機能については、流動性、価格発見、オークション参加、需給調整メカニズムが概ね安定して機能していると評価された。一方で、投資ファンドのEUA保有は前年比10%超増加し、コンプライアンス主体の保有は7%減少した。2025年のEUA価格は投資ファンドのネットポジションと60%超の相関で推移しており、金融主体の市場影響力が拡大している構図が浮かぶ。
報告書は最終的に、EU ETSが環境的健全性の維持、産業競争力の確保とカーボンリーケージ抑制、低炭素技術投資を支える長期的な規制予見性の3目的を同時に満たす設計に向かう必要があると結論づけた。
本報告書は、業界主流のシンクタンクによる年次定点観測の枠を超えるものではなく、競争力議論の高まり自体は欧州グリーンディール後の既定路線の追認である。しかし、2040年目標で明文化された恒久的CDRのEU ETS統合は、ボランタリーカーボンクレジット市場とコンプライアンス市場の境界を再定義する論点として位置づけられる。除去系カーボンクレジットの長期需要見通しと価格形成、コンプライアンス市場との価格裁定の発生有無が、今後の市場構造を左右する。日本のJ-クレジット制度やGX-ETSにおけるCDRの位置づけ議論にも参照点を提供する事例となる。
参考:https://ercst.org/2026-state-of-the-eu-ets-report/