ベトナム農業・環境省(Ministry of Agriculture and Environment, MAE)は、2020年制定の環境保護法を大幅に改正する法律案を起草した。同案は現在、司法省の審査段階にあり、未成立・未発効である。171条のうち82条を改正し、第72a条・第139a条の2条を新設する。
改正案は、低リスク事業に対する行政手続きの簡素化と、データに基づく事後監督・排出管理の強化を同時に進める二面的な構成をとる。政治局が2026年4月2日付の結論17-KL/TWで示した、事前規制・絶対的安全志向から「管理されたリスクの能動的受容」への転換という方針を反映したものである。
緩和側では、環境影響評価(EIA)活動の96%、環境許可手続きの95%を地方当局へ移管する。中央省庁の関与は大規模・越境案件に限定される。低リスク事業の事前審査を縮小し、事業者責任に基づく事後監督へ重心を移すとともに、環境・投資・建設の各手続きを同時並行で処理するワンストップ化を導入する。背景には、2桁成長の実現に向けて投資案件のボトルネックを除去するという政策意図がある。
一方で強化側では、産業施設に対する排出量算定(kiểm kê khí thải)を義務化し、汚染を発生源で抑える枠組みを整える。大気環境については汚染予測制度を新設し、発生後の警告から事前予防型へと転換する。交通・建設分野の移動発生源についても、政府が技術的措置と監視方法を詳細に定める方向で規定が追加された。
緩和と強化を同一の改正で進める点が、本案の構造的な特徴である。
事前審査の縮小と成長優先の設計に対しては、事後監督の執行が伴わなければ環境規律が後退しうるとの見方もある。
本改正案でカーボン市場に直接関わるのは、産業施設への排出量算定の義務化である。施設レベルで排出データを継続的に把握する仕組みは、測定・報告・検証(MRV)の前提を成し、いかなる炭素価格制度においても土台となる。あわせて、廃棄物と排出情報をデジタル化して公開する公共データ基盤が整備され、市民や非政府主体による地域の大気・水質の監視も制度化される。
業界分析では、一連の改正をベトナムの国内炭素取引整備に向けた布石と捉える向きもある。ただし法律案本文が明示的に規定するのは、環境質管理の強化と排出データ基盤の整備であり、炭素取引制度そのものの創設や排出上限の設定には踏み込んでいない。
このほか、改正案は第72a条で再生・回収製品を対象とする循環経済の法的枠組みを新設し、対象産業に再生材の利用比率を課すロードマップの導入も想定している。
本改正案は、ベトナムの環境ガバナンスを事前規制中心の体制から、事後監督とデータ基盤に重心を置く体制へ移行させる、既存の制度整備路線の延長線上に位置づけられる。
注目すべきは、緩和と強化が同一の改正で同居している点である。事前審査の縮小と「管理されたリスクの受容」は2桁成長を優先する政策意図を反映する一方、排出量算定の義務化はデータに基づく統制を強める方向に働く。両者が実効性を伴って両立するか否かは、移管先となる地方当局の事後監督・執行能力に左右される。
カーボン市場の観点で最も実質的な要素は、この排出量算定の義務化である。
ETSであれボランタリー市場であれ、施設レベルの信頼できる排出データなしに機能する制度は存在しない。本改正案は炭素取引制度を創設するものではないが、その前提となるMRV基盤の制度化として評価できる。規制緩和を伴いながら排出データの把握を義務化する本件は、ベトナムの炭素市場形成に向けた前提条件の整備として位置づけられる。