はじめに
カーボン・プライシング(炭素の価格付け)には、大きく分けて二つのアプローチが存在します。一つは、これまで解説してきた、プロジェクトによる排出削減・吸収量を認証するボトムアップ型の「クレジット」。そしてもう一つが、政府が排出量の上限(キャップ)を設定し、その範囲内で排出する権利を割り当てるトップダウン型の「排出枠(Emission Allowance)」です。この排出枠は、キャップ&トレード制度の根幹をなす要素です。
本記事では、国際開発と気候変動ファイナンスの専門家の視点から、この「排出枠」の概念を深掘りします。これが単なる環境規制のツールに留まらず、政府による大規模な資金動員(Finance Mobilization)を可能にし、その制度設計が国内産業の競争力や公正な移行(Just Transition)の行方をいかに左右するのか。また、それが国境を越えて途上国に与える影響についても分析します。
用語の定義
一言で言うと、排出枠とは、政府や規制当局によって発行される「許可証」であり、それを保有する事業者が、許可証1枚あたり1トンの二酸化炭素(またはその相当量)を大気中に排出する権利を認めるものです。
この仕組みは、資源管理のための「漁業割当(漁獲枠)」に例えることができます。
- キャップ(上限): 政府が、魚の乱獲を防ぐために、年間の総漁獲量の上限を「1万トン」と科学的根拠に基づき設定します。
- 排出枠(許可証): その上限に合わせて、合計1万トン分に相当する漁獲許可証を発行し、漁業者に割り当てます。
- トレード(取引): 効率的に漁獲でき、許可証が余った漁業者は、もっと漁をしたいが許可証が足りない他の漁業者に、その許可証を市場で販売できます。
結果として、誰がどれだけ漁獲するかは市場の効率性に委ねられますが、年間の総漁獲量が上限を超えることはなく、資源は確実に保護されます。排出枠もこれと全く同じで、経済全体の総排出量を確実に規制する仕組みです。
【最重要】「排出枠」と「クレジット」の決定的違い
この二つは根本的に異なるものです。
- 排出枠(Allowance): キャップ&トレード制度の一部。政府が「上限」を設定し、その中で排出する「権利」として人為的に創出される。「トップダウン」型。
- クレジット(Credit): ベースライン&クレジット制度の一部。プロジェクト活動によって、あるべき姿(ベースライン)よりも排出量を「削減した実績」を認証したもの。「ボトムアップ」型。
重要性の解説
排出枠を基盤とするキャップ&トレード制度は、その設計思想から、気候変動政策において強力な影響力を持ちます。
- 環境目標の確実な達成: 制度が適切に運用される限り、対象セクターからの総排出量が設定された上限(キャップ)を超えることはありません。キャップ自体が法的な拘束力を持つため、「排出削減量が目標に達するか不確実」という問題を回避し、環境的な成果を保証します。
- 公的気候資金の創出(Finance Mobilization): 政府が排出枠を、対象企業に無償で割り当てるのではなく、**オークション(競売)**にかけて販売することで、莫大な歳入を生み出すことができます。この歳入は、再生可能エネルギーの導入支援、公共交通網の整備、省エネ技術開発といった気候変動対策への再投資や、公正な移行を目的とした低所得者層へのエネルギー価格補助などに活用できる、貴重な公的財源となります。
- コスト効率的な排出削減の促進: 排出枠の「取引(トレード)」が可能なため、社会全体として最も経済合理的な形で排出削減が進みます。安いコストで排出削減できる企業は、どんどん削減を進めて余った排出枠を売却して利益を上げ、逆に対策コストが高い企業は、排出枠を購入することで当座の義務を果たすことができます。これにより、経済への負担を最小限に抑えながら、全体の目標を達成できます。
- 途上国への国際的影響: EUの排出量取引制度(EU-ETS)のような大規模な制度は、国境を越えた影響力を持ちます。特に、炭素価格の低い国からの輸入品に事実上の炭素税を課す「炭素国境調整メカニズム(CBAM)」は、EUに製品を輸出する途上国の産業に大きな経済的影響を与え、脱炭素化への対応を迫ります。
仕組みや具体例
排出枠が機能するキャップ&トレード制度は、以下のステップで構成されます。
- キャップ(上限)の設定: 政府が、パリ協定の目標などと整合するように、対象セクター(例:電力、鉄鋼、セメント)の排出総量に、年々減少していく上限を設定します。
- 排出枠の配分: 設定された上限と同量の排出枠を創出し、対象企業に配分します。配分方法は、過去の実績に応じて無償で割り当てる「グランドファザリング」や、全量を競売にかける「オークション」があります。
- 履行義務: 各企業は、一年間の事業活動を終えた後、自らの実際の排出量と同量の排出枠を政府に提出する義務を負います。
- 取引: 削減努力によって排出枠が余った企業と、生産活動の活発化などで排出枠が不足した企業との間で、排出枠の売買(トレード)が行われます。
具体例:欧州連合排出量取引制度(EU-ETS) 世界で最も歴史があり、最大規模のキャップ&トレード制度です。発電所、製造業、航空業界など、1万以上の施設を対象としています。段階的にキャップを引き下げることで、対象セクターからの排出量を着実に削減してきました。また、排出枠のオークションによる歳入は、EUおよび加盟国にとって、グリーン・ディール政策などを支える重要な財源となっています。
国際的な動向と日本の状況
キャップ&トレード制度は、世界中で導入が進むカーボンプライシングの主要な手法となっています。
国際的な動向(2025年9月現在)
- オークションの主流化: 新たに導入される制度では、企業への「ただ乗り(フリーライド)」や予期せぬ巨額の利益(ウィンドフォール・プロフィット)を防ぎ、公的歳入を最大化する観点から、無償配分を減らし、オークションの比率を高めるのが世界の潮流です。これは公正な移行の観点からも重要です。
- 制度間の連携と国境調整: カリフォルニア州とカナダのケベック州のように、異なる国や地域の制度を「リンク」させ、より大きく流動性の高い市場を形成する動きが進んでいます。同時に、EUのCBAMのような国境調整措置が、制度の有効性を保ち、産業の海外流出(カーボンリーケージ)を防ぐための重要な論点となっています。
日本の状況 日本には、全国を対象とした強制的なキャップ&トレード制度はまだありませんが、東京都が独自の制度を導入・運用しています。 国レベルでは、「GX-ETS(グリーントランスフォーメーション・リーグにおける排出量取引制度)」が段階的に導入されています。2025年現在、企業の自主的な参加が中心ですが、将来的には本格的な制度へと移行し、排出枠のオークションなども導入される計画です。この将来の制度設計(キャップの水準、オークション歳入の使途など)は、日本の気候変動目標達成と、その過程における公正な移行を実現する上で、極めて重要な意味を持ちます。
メリットと課題
排出枠(キャップ&トレード制度)は強力なツールですが、その設計と運用には細心の注意が必要です。
メリット
- 環境成果の確実性: キャップにより、排出削減量が保証されます。
- 経済的効率性: 市場メカニズムを通じて、社会全体の削減コストが最小化されます。
- 公的財源の創出: オークションにより、気候変動対策のための新たな歳入源を確保できます。
課題
- 価格の不安定性: 景気変動などにより排出枠の価格が乱高下し、企業の投資計画に不確実性をもたらす可能性があります。
- カーボンリーケージ: 制度の導入により、国内の産業が、規制のない海外へと生産拠点を移してしまうリスク。
- 分配の公平性(公正な移行の懸念): 制度設計を誤ると、エネルギー価格の上昇などを通じて、低所得者層に不釣り合いな負担を強いる「逆進性」の問題が生じます。オークション歳入の還流策が不可欠です。
- 政治的な困難: 産業界からの反発などにより、科学的に必要とされるほど厳しいキャップを設定することが政治的に困難な場合があります。キャップが緩すぎれば、制度は形骸化し、市場の信頼性を失います。
まとめと今後の展望
排出枠は、政府が排出量に上限を課すトップダウン型の規制ツールであり、キャップ&トレード制度の基盤です。
- 要点の整理
- 排出枠は、排出する「権利」を許可証として発行するもので、削減した「実績」を認証するクレジットとは根本的に異なります。
- その最大の強みは、環境目標の達成を保証する「確実性」と、オークションによる「公的資金の創出能力」にあります。
- 制度設計、特に歳入の使途は、経済への影響を緩和し、公正な移行を実現する上で極めて重要です。
- 今後の展望 パリ協定の下で各国が削減目標を引き上げる中、排出枠を基本とする排出量取引制度は、ますます重要な政策手段となるでしょう。今後の焦点は、制度をいかに野心的、かつ公平に設計・運用できるかにあります。特にオークション歳入をどう活用するかは、その国の公正な移行への本気度を測るリトマス試験紙となります。
途上国にとっては、他国の制度(CBAMなど)への対応に加え、将来的に自国でどのようなカーボンプライシングを導入するかが大きな課題となります。私たち国際開発と気候ファイナンスの専門家は、各国がその国情に合わせ、公平で効果的な制度を設計・導入するための能力構築を支援していくという、重要な役割を担っています。