はじめに
気候変動対策が、単に排出を「減らす」だけでなく、大気中からCO2を積極的に「取り除く」ことをも求められる時代において、最も身近で、かつ多面的な便益をもたらす炭素除去(CDR)技術として、「バイオ炭(Biochar)」が世界的な注目を集めています。これは、日本の農村で古くから使われてきた「燻炭(くんたん)」の知恵を、最新の科学と気候変動ファイナンスで再評価した、革新的なソリューションです。
本記事では、このバイオ炭を「国際開発と気候変動ファイナンス」の視点から深く分析します。バイオ炭がいかにして、土壌を豊かにしながら、炭素を数百年以上にわたって大地に封じ込めるのか。そして、この活動が、特に途上国の小規模農家の気候変動への「適応」と「緩和」を同時に実現し、彼らに新たな収入源をもたらす「公正な移行(Just Transition)」のモデルとなり、新たな資金を動員(Finance Mobilization)しているのか。その仕組みから最新の市場動向までを解説します。
用語の定義
一言で言うと、バイオ炭とは**「木材や農業廃棄物などのバイオマス(生物資源)を、酸素のない、あるいは少ない状態で加熱(熱分解)して作られる、炭素を豊富に含む木炭状の物質」**のことです。
重要なのは、燃料として燃やすことを目的とした木炭とは異なり、バイオ炭は主に「土壌改良材」として、また「炭素を安定的に貯留する」目的で製造・利用される点です。この製造プロセス(熱分解)を経ることで、植物が光合成によって大気中から吸収した炭素が、微生物に分解されにくい、非常に安定した炭素の構造に変換されます。これを土壌に施用することで、炭素を数百年から数千年にわたって土の中に閉じ込める(隔離する)ことができるのです。
重要性の解説
バイオ炭の重要性は、気候変動に対する「緩和(炭素除去)」と「適応(農業の強靭化)」という、二つの決定的な便益を同時に、かつ分散型で実現できる点にあります。
これは、土壌の中に「炭素でできた恒久的なサンゴ礁」を築くようなものだと例えることができます。
- 構造: バイオ炭は、非常に多孔質(小さな穴がたくさん開いている)な構造をしています。この無数の穴が、土壌中の微生物にとって快適な「住処」となり、水や養分を保持するための「スポンジ」の役割を果たします。
- 適応への貢献: 土壌の保水性・保肥性が高まることで、干ばつに強い、より強靭な(レジリエントな)農業が可能になります。また、化学肥料の使用量を減らすことにも繋がります。
- 緩和への貢献: そして、この「サンゴ礁」の主成分である炭素は、大気中のCO2を植物が固定したものであり、それが土壌中に半永久的に貯留されることで、大気中からのCO2の純粋な「除去」が実現します。
この二重の便益、特に農業生産性の向上と気候変動への適応という、途上国の開発課題に直接貢献する点が、BECCSのような他のバイオマスを利用した炭素除去技術と比較した場合の、バイオ炭の際立った特徴であり、強みなのです。
仕組みや具体例
バイオ炭が、気候変動ファイナンスの対象となるカーボンクレジットを生み出すプロセスは、そのライフサイクル全体での炭素収支に基づいています。
- 原料調達: 農業廃棄物(もみ殻、コーヒーの殻など)や、持続可能な方法で管理された森林の残材など、環境に悪影響を与えないバイオマスを原料とします。
- 製造(熱分解): 専用の装置で、酸素を遮断した状態でバイオマスを加熱し、バイオ炭を製造します。
- 土壌への施用: 製造されたバイオ炭を、農地や森林の土壌に鋤き込みます。
- 測定・報告・検証(MRV): 製造されたバイオ炭の量と、その炭素含有率、安定性を測定します。そして、製造や輸送の過程で排出されたGHGを差し引いた、純粋な炭素貯留量を算定し、そのプロセスと結果を第三者機関が検証します。
- クレジット発行: 検証された純除去量に基づき、Puro.earthのような炭素除去クレジットの認証機関が、クレジットを発行します。
具体例:コロンビアにおける小規模コーヒー農家の取り組み
- 背景: コーヒー豆の精製過程で大量に出るコーヒーハスク(殻)が、これまで廃棄物として扱われていた。
- プロジェクト: 現地の社会的企業が、小規模農家向けに小型のバイオ炭製造装置を導入。農家は、廃棄物であるハスクを原料にバイオ炭を製造する。
- 成果:
- 農業: 製造したバイオ炭を自身のコーヒー畑に施用し、酸性土壌の改良、保水性の向上、化学肥料の使用量削減を実現。
- 気候変動ファイナンス: 製造・施用したバイオ炭の量に基づき、炭素除去クレジット(CORCs)が発行され、国際市場で販売される。その収益が、農家の新たな収入源となる。
- 公正な移行: 廃棄物を資源に変え、農業の生産性と気候変動への強靭性を高め、さらに新たな収入を生み出すという、まさに理想的な「公正な移行」のモデルケースとなっている。
国際的な動向と日本の状況
2025年現在、バイオ炭は、DACCSと並び、高品質な炭素除去(CDR)クレジット市場を牽引する、最も重要な技術の一つとしての地位を確立しています。
国際的な動向:
Puro.earthのようなマーケットプレイスでは、バイオ炭から創出されたクレジットが、その高い永続性と共同便益から、1トンあたり100ユーロ以上という高値で、IT企業などを中心に活発に取引されています。その人気の理由は、DACCSのようなハイテク集中型の大規模プロジェクトとは対照的に、より分散型で、途上国の地域社会に直接的な便益をもたらす「ボトムアップ型」のソリューションである点です。
日本の状況:
日本は、古くから農業で「燻炭」を利用してきた歴史があり、バイオ炭への関心は非常に高いです。農林水産省は、「みどりの食料システム戦略」の中で、バイオ炭を土壌改良と温暖化対策の切り札として位置づけ、その普及を推進しています。また、日本のJクレジット制度においても、2020年にバイオ炭の農業利用に関する方法論が承認され、国内で創出されたバイオ炭による炭素貯留が、クレジットとして取引可能になっています。
メリットと課題
バイオ炭は多くの利点を持つ一方で、その普及には質の管理が不可欠です。
メリット:
- 炭素除去と農業便益の両立: 気候変動の緩和と適応に同時に貢献できる。
- 分散型・スケーラブル: 大規模プラントから、村単位の小型装置まで、多様なスケールで製造・利用が可能。
- 廃棄物の資源化: 農業・林業残渣を有効活用し、サーキュラー・エコノミーを促進する。
- 高い永続性: 数百年から数千年にわたり炭素を安定的に貯留できる。
課題:
- 原料の持続可能性: クレジット創出のために、健全な森林を伐採してバイオ炭を製造する、といった本末転倒な事態を防ぐための、厳格な原料の持続可能性の担保が不可欠。
- 品質の標準化: 製造時の温度や原料によって、バイオ炭の性質(炭素含有量、安定性など)が大きく異なるため、品質を標準化し、信頼性の高いMRV体制を確立することが重要。
- コスト: 炭素クレジットからの収入がなければ、従来の農法に比べて、導入コストや手間が負担となる場合がある。
まとめと今後の展望
バイオ炭は、最先端の気候科学と、古くからの農の知恵が融合した、極めてエレガントな気候変動ソリューションです。
要点:
- バイオ炭は、バイオマスを熱分解して作る炭素貯留材であり、土壌改良と炭素除去を同時に実現する。
- 途上国の小規模農家の気候変動への適応力向上と、新たな収入源創出に貢献する、「公正な移行」のモデルとなり得る。
- Puro.earthなどの国際市場や、日本のJクレジット制度において、高品質な炭素除去クレジットとして取引されている。
- その成功の鍵は、原料の持続可能性をいかに担保し、品質を標準化できるかにかかっている。
今後の展望として、バイオ炭の製造技術はさらに進化し、より低コストで、かつ熱分解時に発生するガスやオイル(バイオオイル)もエネルギーや資材として有効活用する、統合的なシステムが普及していくでしょう。気候変動ファイナンスの視点からは、バイオ炭は単なる「炭素除去」の手段に留まらず、土壌の健康を取り戻し、世界の食料システムをより持続可能で強靭なものへと転換するための、包括的な投資対象として、その重要性を増していくに違いありません。それは、地球の炭素循環と、地域社会の経済循環を、同時に健全化していくための、力強い一歩なのです。