今日の複雑な気候変動ファイナンスの世界を理解するためには、「クリーン開発メカニズム(Clean Development Mechanism, CDM)」の歴史を避けて通ることはできない。これは、1997年の京都議定書の下で創設された、先進国と開発途上国を結ぶ、史上初のグローバルな市場メカニズムである。
本記事では、このCDMを「国際開発と気候変動ファイナンス」の視点から深く分析する。CDMがいかにして、それまで不可能と考えられていた、先進国の民間資金を途上国の排出削減プロジェクトへと大規模に呼び込むパイプラインを築いたのか。そして、その運用を通じて露呈した市場の信頼性を巡る数々の課題が、今日のパリ協定6条下の制度設計や、公正な移行を巡る議論にどのような重い教訓を残したのか。その光と影の物語を、包括的に解説する。
クリーン開発メカニズム(CDM)とは
一言で言うと、クリーン開発メカニズム(CDM)とは「先進国が、開発途上国における温室効果ガス(GHG)排出削減プロジェクトを支援し、その成果として生まれた削減量(クレジット)を、自国の削減目標達成のために獲得できる仕組み」である。
これは、京都議定書が定めた3つの柔軟性措置メカニズム(京都メカニズム)の中で、唯一、排出削減義務のない途上国を巻き込むものであった。その目的は二つあり、一つは先進国に、国内での対策よりもコストの低い削減機会を提供すること。もう一つは、途上国に、持続可能な開発に資する技術と資金を移転することであった。このメカニズムから創出されたクレジットは「認証排出削減量(Certified Emission Reduction, CER)」と呼ばれ、1CERが1トンのCO2削減量に相当する。
CDMの歴史的な重要性
CDMの歴史的重要性は、気候変動対策が、もはや各国の国内政策や政府開発援助(ODA)だけの領域ではなく、グローバルな民間投資の対象となり得ることを、世界で初めて証明した点にある。
これは、国境を越えて環境価値を取引する、巨大な「金融の架け橋」を建設する試みに例えることができる。この架け橋(CDM)ができる前は、途上国における再生可能エネルギーや省エネルギーのプロジェクトは、多くの場合、資金不足から実現が困難であった。しかし、CDMによって、プロジェクトが生み出す「排出削減」という目に見えない価値が、CERという先進国が購入できる「商品」に変わった。
この「価値の転換」が、それまで途上国でのグリーンプロジェクトに慎重だった民間企業の投資判断を根本から変えた。CERの売却益という新たな収益源が生まれることで、プロジェクトの採算性が向上し、何十億ドルもの民間資金が、途上国の持続可能な開発へと流れ込む道筋が拓かれたのである。これは、気候変動ファイナンスという概念そのものを創り出した、歴史的なパラダイムシフトであった。
CDMプロジェクトの厳格な承認プロセス
CDMプロジェクトとして登録され、CERが発行されるまでには、国連気候変動枠組条約(UNFCCC)の監督下で、厳格かつ多段階のプロセスを経る必要があった。
プロジェクトの設計と妥当性確認
プロジェクト開発者は、プロジェクトが追加的(additonal)であること、つまりCDMの支援がなければ実現しなかったことを証明する設計書を作成する。その後、国連が認定した独立監査機関(DOE)による妥当性確認を受ける。
ホスト国と投資国の承認
プロジェクトが実施される途上国(ホスト国)と、支援する先進国(投資国)の双方の政府から承認を得る。
CDM理事会による登録と検証
上記の審査を経て、UNFCCCのCDM理事会がプロジェクトを正式に登録する。プロジェクト実施後、計画に従って排出削減量を測定し、その結果を再びDOEが検証する。CDM理事会が検証報告書を最終承認することで、削減量に応じたCERが発行され、プロジェクト参加者に分配される。
具体的なプロジェクト事例
TEPCOによる中国での風力発電CDMプロジェクト参加
日本企業も積極的に海外プロジェクトへ参画していた。例えば東京電力(TEPCO)は、2007年に中国・新疆ウイグル自治区で行われた風力発電のCDMプロジェクトに参加した。
このプロジェクトでは、中国のCECIC Wind Power(Xinjiang)社が総出力30MW(1.5MW 20基)の風力発電所を建設し、地域の電力会社へ供給することで、化石燃料の使用を抑制し、GHG排出削減につなげる仕組みである。
TEPCOは、この事業で生じるCO2削減量のうち約43万トン分をCERとして2007年9月から2012年12月までの期間に購入する契約を締結した。中国政府と日本政府の承認を経て、京都メカニズムの一環として国際的な排出削減に寄与する枠組みが整えられた。このような取り組みは、日本企業が自国内の効率改善だけでなく、海外の再生可能エネルギー開発を通じて地球規模の排出削減に貢献する代表例と言える。
CDMが残した重い教訓
CDMは、数千件のプロジェクトを動かし、数十億トンのCERを発行するという空前の成功を収めた一方で、深刻な課題も露呈した。これらの課題は、現在のパリ協定6条下の制度設計に痛切な反省として活かされている。
市場の信頼性の問題
特に大規模な産業ガス破壊プロジェクトなどが、「本当に追加的だったのか」という強い批判を浴び、市場全体の信頼を揺るがした。プロジェクトの「質」が不均一であり、市場全体の信頼性を損なう一因となった。
地理的な偏りと不公正な分配
プロジェクトが、中国、インド、ブラジルといった一部の新興国に集中し、最も支援を必要とする後発開発途上国(LDCs)には資金がほとんど届かなかった。利益が一部の国に集中し、最も脆弱な国々やコミュニティが取り残されたのである。
公正な移行の欠如と持続可能な開発への貢献不足
一部のプロジェクトが、地域住民の権利を侵害したり、十分な利益を還元しなかったりする事例が報告され、社会的なセーフガードの重要性が浮き彫りになった。また、多くのプロジェクトが、謳われた持続可能な開発便益を実際にはもたらさなかったとの批判もある。
複雑な官僚的なプロセス
複雑で時間のかかる国連の承認プロセスが、民間企業の参加を阻害する要因となった。
日本の「二国間クレジット制度(JCM)」
日本は、京都議定書の目標達成のためにCERを最も多く活用した国の一つであり、官民ともにCDMプロジェクトに深く関与した。この経験を通じて得られた知見と、CDMの持つ課題への反省から、日本はより迅速で、二国間の関係性を重視した「二国間クレジット制度(JCM)」を創設・推進している。JCMは、CDMの教訓を日本流に昇華させた、ポスト京都時代の国際協力モデルと言える。
まとめ
クリーン開発メカニズム(CDM)は、その歴史的役割を終えたが、その壮大な実験がなければ、今日の気候変動ファイナンスの議論は存在しなかった。
- CDMは、京都議定書の下で、先進国の資金を途上国の排出削減プロジェクトに繋いだ、初の国際市場メカニズムである。
- 民間資金を動員し、気候変動ファイナンスという概念を確立したが、信頼性や公正性の面で多くの課題を残した。
- その失敗の教訓は、より信頼性が高く、より公正な市場を目指す、現在のパリ協定6条の制度設計の礎となっている。
- 日本のJCMは、CDMの経験と反省を踏まえて設計された、日本独自の発展形である。
CDMの物語は、気候変動ファイナンスが、単に効率的な資金の流れを生み出すだけでなく、その根底に揺るぎない信頼性と、最も脆弱な人々への配慮を欠く「公正な移行」の視点を持たなければ、真に持続可能ではあり得ないことを、我々に強く教えている。

