インド政府、「カーボンクレジット取引制度」に価格安定策を検討 市場信頼性と脱炭素投資の両立を模索

村山 大翔

村山 大翔

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インド政府が2026年に施行を予定する「カーボンクレジット取引制度(Carbon Credit Trading Scheme, CCTS)」は、9産業を対象に排出量取引市場を創設する計画である。制度の実効性を確保するため、国際的な事例を踏まえた価格安定メカニズムの導入が焦点となっている。市場の過剰供給や価格下落を防ぎ、安定した炭素価格を維持できるかが、同国のエネルギー転換と産業競争力の鍵を握る。

経済成長と気候目標の両立へ

CCTSは、経済成長を維持しながら排出削減を進めるために「ベースラインクレジット方式」を採用する。生産量あたりの排出強度に基づく目標設定により、経済拡大を阻害せずに効率改善や設備更新を促す設計だ。初期段階では平均3%の削減を想定しており、緩やかな導入を通じて市場参加を促す狙いがある。

しかし、排出原単位を基にした制度では、実際の生産量や業績によりクレジット供給が変動するため、基準値設定の精度が市場均衡を大きく左右する。過剰な余剰クレジットが発生すれば、将来の排出義務を容易に満たせるため、価格下落や市場の信号喪失につながる懸念がある。

国際市場の教訓、価格安定策の有無が明暗を分ける

米カリフォルニア州の排出量取引制度は、2013年の開始当初から安定策を導入し、価格の下支えに成功した。最低価格10ドル(当時約1,000円)を毎年5%+インフレ率で上昇させ、さらに「価格抑制準備金(Allowance Price Containment Reserve)」を設けることで、一貫した炭素価格を維持している。

一方、価格安定策を後から導入した市場では混乱が続いた。カナダ・アルバータ州のTIER制度では2023年までに5,300万件超の余剰クレジットが発生し、実勢価格が基準価格を40%下回った。欧州連合(EU)の排出量取引制度(EU ETS)も、14年を経て「市場安定化準備金(Market Stability Reserve, MSR)」を導入するまで、1トンあたり3〜7ユーロ(約470〜1,100円)の低価格にとどまった。

気候政策シンクタンク「Climate Strategies」の分析によれば、こうした市場の効率損失の3分の2は、初期段階で安定化メカニズムを導入していれば回避できたとされる。

インド版PSAM構想、3つの要素で市場均衡を図る

IEEFA(エネルギー経済・財務分析研究所)の報告では、インドCCTSには「価格・供給調整メカニズム(Price or Supply Adjustment Mechanism, PSAM)」を組み込むべきだと提言している。これは、供給過多や逼迫など市場の不均衡が生じた際に、クレジット供給量を自動的に調整する仕組みである。

報告書は、インド向けに以下の3要素を統合したPSAMの設計を提案している。

  1. 委託オークション(Consignment Auctions)
    発行クレジットの一部を規制当局が管理するオークションで販売し、需要不足時にはクレジットを市場準備金として留保する。これにより、供給を動的に制御できる基盤を構築する。
  2. ヴィンテージ(発行年)制限ルール
    クレジットに発行年を明記し、有効期間を一定の年度枠内に限定。古いクレジットの使用を制限することで、価格の先行き感を形成し、投資判断を容易にする。
  3. 価格コリドー(Price Corridor)
    既存の価格下限・上限(価格コラ―)を維持しつつ、上下限に近づいた段階で自動介入する「作動ゾーン」を設定。下限接近時は発行抑制、上限接近時は準備金放出を行う。

これらを組み合わせることで、市場介入を最小限にしつつ、過剰供給や価格暴落を防ぐことが可能になる。

試験運用なしのリスクと国際的波及効果

インドのCCTSは試験運用(パイロット)期間を設けずに本格運用を開始する予定であり、初期段階の不均衡修正を市場メカニズム内で吸収する必要がある。このため、PSAMのような制度的安定装置の早期導入が不可欠とされる。

安定した炭素価格は、国内産業の省エネ投資を促すだけでなく、EUが導入する炭素国境調整措置(CBAM)への対応力を高める効果も期待される。CCTSが実効性ある価格シグナルを発することで、インドは新興国の中で先駆的な排出取引制度のモデルとなる可能性がある。

インドのカーボンクレジット取引制度が行政的枠組みを超え、真に投資に値する「脱炭素インフラ」として機能するためには、柔軟性と規律の両立が欠かせない。PSAMはその「規律」を担う中核装置となり得る。制度設計の精緻化と早期導入こそが、持続的な炭素価格と産業の脱炭素化を実現する道である。

参考:https://www.weforum.org/stories/2025/11/why-india-s-carbon-market-needs-a-price-stability-mechanism/