気候変動との戦いには、大きく分けて2つのアプローチがあります。一つは、大気中のCO2を積極的に吸い取る「除去」の活動。もう一つは、そもそもCO2が大気中に出るのを未然に「防ぐ」活動です。カーボンクレジットの世界も、この2つの考え方に基づいて大きく分類されています。
この記事では、後者のアプローチ、すなわち、カーボンクレジット市場の大部分を占めてきた「回避系クレジット(Avoidance Credits)」について、その仕組み、重要性、そして今まさに世界が直面している「その使い道」をめぐる大きな論争を解説します。
回避系クレジットとは
回避系クレジットとは、一言で言うと「もしそのプロジェクトがなければ排出されていたであろう、温室効果ガスの排出を、回避・削減した量を価値化したカーボンクレジット」のことです。
これは、「除去系クレジット」との対比で理解することが極めて重要です。
- 回避系(Avoidance)クレジット
- 活動内容: 排出そのものを未然に防ぐ(例:森林伐採を止める、クリーンエネルギーを導入する)。
- 大気への影響: 大気中のCO2濃度が、これ以上悪化するのを防ぐ。
- 例えるなら: 浴槽の蛇口を「閉める」ことで、水かさが増えるのを止める行為。
- 除去系(Removal)クレジット
- 活動内容: 大気中からCO2を物理的に取り除く(例:植林する、DACで回収する)。
- 大気への影響: 大気中のCO2濃度を純粋に減少させる。
- 例えるなら: 浴槽の栓を「抜く」ことで、水かさを減らす行為。
なぜ回避系クレジットが重要なのか
回避系クレジットは、特に途上国における気候変動対策と、その資金調達において、これまで中心的な役割を果たしてきました。
大規模かつ費用対効果の高い削減
多くの場合、CO2を除去するよりも、排出を回避する方が、より低コストで、より大規模な削減を迅速に実現できます。特に、森林保全(REDD+)は、最も費用対効果の高い気候変動対策の一つとされています。
「今そこにある危機」への対応
熱帯雨林や生態系は、一度失われると元に戻すことは非常に困難です。REDD+のような回避系プロジェクトは、このかけがえのない自然資本が失われるのを「今」防ぐという、極めて緊急性の高い役割を担っています。
豊かな共同便益(コベネフィット)
クリーンクックストーブの普及が女性や子供の健康を守ったり、森林保全が地域コミュニティの暮らしや生物多様性を支えたりと、多くの回避系プロジェクトは、気候以外の面でも大きなプラスの効果をもたらします。
回避系クレジットの主な種類
- 森林減少・劣化の抑制(REDD+)
回避系クレジットの中で最も代表的かつ取引量の多いカテゴリー。途上国の森林が伐採されるのを防ぐことで、膨大な量の炭素が大気中に放出されるのを回避します。 - エネルギー効率の改善
非効率な古い調理コンロを、燃料の少なくて済む新しいコンロ(クリーンクックストーブ)に置き換えることで、薪の燃焼による排出を回避します。 - メタンガスなどの回収・破壊
埋立地や家畜の糞尿から発生する、CO2より温室効果の高いメタンガスを回収し、燃焼させて比較的害の少ないCO2に変えることで、より大きな温暖化効果を回避します。
国際的な動向と「使い道」をめぐる大論争
回避系クレジットは、その重要性にもかかわらず、近年、その「正しい使い道」をめぐる世界的な大論争の渦中にあります。
「ネットゼロ」の定義とSBTiの問題提起
企業の科学的根拠に基づく目標設定を推進する国際イニシアチブSBTiなどが、「真のネットゼロとは、自社の残余排出量を、除去系クレジットによってのみ中和(neutralize)した状態である」という考え方を提唱しました。これは、「プラスの排出」をバランスさせるには、「マイナスの排出(除去)」が必要であり、「排出の回避(ゼロの維持)」では釣り合わない、という科学的な考え方に基づいています。
市場への影響
この考え方は、「回避系クレジットは、企業のカーボンニュートラルやネットゼロの主張(オフセット)には使えないのではないか」という大きな波紋を市場に広げました。これは、回避系クレジットの需要を激減させ、REDD+など途上国の重要なプロジェクトへの資金供給を滞らせるリスクを生み出しました。
現在の潮流(2025年)
現在、この議論は「どちらか一方」ではなく、「両方が必要であり、役割が違う」という方向に落ち着きつつあります。VCMIなどの国際イニシアチブは、企業に対し、
①自社のバリューチェーン外の緩和に貢献するための「貢献(Contribution)」と、②自社の残余排出量を中和するための「相殺(Neutralization)」を区別して報告することを推奨しています。
回避系クレジットは主に①の「貢献」のために、除去系クレジットは②の「相殺」のために、という役割分見が今後の主流になると見られています。
メリットと課題
メリット
- 費用対効果が高く、大規模な排出削減を迅速に実現できる可能性がある。
- 森林保全など、緊急性が高く、豊かな共同便益を持つ活動を支援できる。
- これまでカーボン市場の流動性の大部分を支えてきた実績がある。
デメリット
- 追加性の証明の難しさ: 「もしも」のシナリオを証明する必要があるため、特にREDD+プロジェクトの追加性には、常に厳しい目が向けられる。
- 「使い道」に関する市場の不確実性: 企業のオフセットに利用できるか否かという議論が続いているため、将来の価値が不安定になるリスクがある。
- 除去系クレジットとの比較: 「除去」という直接的なアクションに比べ、「回避」は価値が低いと見なされることがある。
まとめと今後の展望
本記事では、回避系クレジットが、排出を「未然に防ぐ」ことで気候変動に貢献する、市場の主要なクレジットタイプであることを解説しました。
- 回避系クレジットは、排出を未然に防ぐ(Avoidance)活動から生まれる。
- 除去(Removal)系クレジットとは、大気中のCO2への影響が根本的に異なる。
- REDD+や再生可能エネルギーが、その代表的なプロジェクト。
- 企業のオフセットに利用できるかという「使い道」が、現在、国際的な最大の論点。
回避系クレジットの役割は、今、歴史的な見直しの時期を迎えています。しかし、その価値が失われたわけではありません。国際開発の視点からも、途上国の貴重な自然を守り、クリーンなエネルギーへの移行を支援する回避系プロジェクトへの資金提供を止めることは、現実的な選択肢ではありません。
今後は、企業が自らの気候貢献を報告する際に、「除去による中和」と「回避による貢献」を、より誠実かつ透明性高く使い分けていく、新しい時代が訪れることになるでしょう。