サイエンス・ベースド・ターゲット・イニシアチブ(SBTi)は2026年5月21日、2026-2030年戦略「Catalyzing Corporate Action」を公表した。設立から10年を経て、これまでの「目標設定主導型」から「変革パートナー」への役割転換を明確に打ち出し、企業の実装支援、セクター別・地域別アプローチへの細分化、パートナーシップ強化、高排出セクター・地域への展開拡大を柱に据える。
戦略策定時点でSBTiに目標設定または設定コミットメントを行った企業は世界で13,000社を超え、近期目標を設定済みの企業は10,991社、うちネットゼロ目標を設定したのは2,574社に達する。地域別では欧州6,714社、アジア4,608社、北米1,556社、中南米273社で、アジアの内訳は日本・中国・インドが中心となる。
新戦略の中核は、企業実装段階で顕在化した4つの課題に対する応答である。第一に、画一的なアプローチからセクター・地域別の個別最適化への移行。第二に、目標設定一辺倒からデータ透明性・システムレベル評価を含む実装重視への転換。第二に、断片化・重複・企業負担を軽減する標準化エコシステム内での連携強化。第四に、高排出セクター・地域での網羅性拡大である。
戦略の中で最も実装現実を反映しているのが、目標未達企業の取扱いに関する整理である。スコープ3を中心に依存性と不確実性を伴う領域では、目標が「ベストエフォートベース」で設定されていることを明示し、利用可能なすべてのレバーを行使し排出削減で実質的な進捗を示した企業については、未達であっても透明性の高い説明とともに枠組み内残留と継続的なネットゼロ進捗主張を認める。整合性は、年次進捗報告、5年ごとの第三者保証、新規目標設定時の達成基準審査というガードレールで担保する設計である。
これはV1期の「コミットメント主義」が直面した実装現場の限界に対する制度的応答であり、企業にとっては「グリーンウォッシング指摘を回避しながら目標未達を語る」公式経路が初めて整備されたことを意味する。
カーボンクレジット業界にとっての最大の意味は、SBTiが市場メカニズムとカーボンクレジットの位置づけを正面から定義したことにある。
SBTiは、企業による自社カーボンフットプリント削減を最優先と位置づけたうえで、企業が排出を追跡できない、または削減レバーが限定される場合の補完的選択肢として、ブック・アンド・クレーム方式、セクターアプローチ、そして高信頼性カーボンクレジットを認める方針を Corporate Net-Zero Standard V2 に組み込むことを明示した。
具体的には、農業活動プールにおけるブック・アンド・クレームはランドスケープレベルでの農法転換と削減を支援し、セクターアプローチは CCUS・e-SAF 等の新技術導入を後押しする。高信頼性カーボンクレジットは「代替」ではなく「補完」として位置づけられ、企業による自社削減の代替手段ではないことが厳格に区別される。
重要なのは、SBTi が「自前のクレジット信頼性基準は作らない」と明言した点である。代わりに ICVCMの CCPs(コアカーボン原則)を含む既存の認証フレームワークを「自らのアプローチと整合的で目標達成に適格」と認定する設計を取る。
これは VCM の正統性付与構造において、ICVCM をはじめとする品質認証機関への権限委任が事実上確定したことを意味する。SBTi 認証企業が目標達成に活用するカーボンクレジットの品質判定が ICVCM 等に集約されることで、ICVCM 認定方法論の市場プレミアム化が加速する見通しである。
一方で、ブック・アンド・クレームをめぐっては現行の GHG プロトコル会計慣行下では「自社排出削減ではなく広範なセクター脱炭素への貢献」と整理されることが明示されており、企業が行える主張の定義に制約が課される。詳細はガードレールとともに Corporate Net-Zero Standard V2 の最終版で示される。
SBTi は、電力・自動車セクター基準を 2025 年後半の意見公募を経て確定する。FLAG(森林・土地利用・農業)は既に 400 社以上が採用しており、会計方法論、再生農業のベストプラクティス、ランドスケーププロジェクト、グリーン肥料スケーリング、アグロフォレストリーによるインセッティング、食品ロス削減等の論点を整理する。
エネルギー集約セクター(鉄鋼、セメント、化学、アルミニウム)は、短期は省エネルギーと燃料転換、中期はグリーン水素と CCUS という時間軸での取り扱いとなる。海運・航空は燃料効率改善、バイオ燃料を含む代替燃料活用、残余排出への早期対応を組み合わせる。石油・ガス基準は専門家諮問グループの 2026 年 2 月討議文書を踏まえて策定される。
これらは Corporate Net-Zero Standard V2 と相互運用可能な設計とされ、線形収縮アプローチがスコープ 1 で困難な排出集約型企業向けにセクター別の現実的経路を提供する。
地域展開ではアジアと欧州・米州、新規にアフリカを重点地域とする。アジアではインドと東南アジアの1か国に拠点を設置し、ハブ機能を持たせる。
日本は中国・インドとともに「既に十分な代表性がある3か国」と整理され、新規拠点設置の対象外である。日本企業は 4,608 社を擁するアジアの中核市場として既に成熟段階にあるとの SBTi 判断が読み取れる。
ただし、これは日本企業にとって支援密度が低下することを意味しない。Corporate Net-Zero Standard V2 への移行、サプライチェーン経由の SME 巻き込み、セクターアプローチへの対応、そして2027年から開始されるシステムレベル進捗評価と非公開ベンチマーキングへの参画は、いずれも既存登録企業の能動的アクションを要する。SBTiは2026年に20社の大企業を選定しサプライチェーン展開のパイロットを実施する方針で、日本の大企業がこの対象に含まれるかは戦略実装上の論点となる。
V2ではISOネットゼロ規格との同時バリデーション提供を志向し、ISO規格を「より小規模企業向けのオンランプ」として位置づける。GHGプロトコルとは会計基盤の整合性を保ちつつ、市場メカニズム取扱いではSBTiが先行する関係性を継続する。EUのCSRD(企業サステナビリティ報告指令)との整合性も明示され、CSRD開示要件における移行計画・ネットゼロ整合性の枠組みとして SBTi基準が利用可能な構造となる。
財務機関ネットゼロ基準は2025年7月に公表済みで、Corporate Net-Zero Standard と相互運用可能である。190機関が32法域で既にバリデーション済みで、2024年は前年比約50%の増加、2025年には初のG-SIB(グローバルなシステム上重要な銀行)と、インドネシア・タイ・コロンビアの初の銀行がバリデーションを受けた。
本戦略はSBTiの「基準設定者」から「変革パートナー」への役割再定義として位置づけられる。
V1期にSBTiが直面したのは「コミットメントを設定したが達成できない企業をどう扱うか」という制度的アポリアであった。本戦略はこれに対し、ベストエフォート原則と透明性ガードレールを組み合わせた現実的解を提示した。これは厳格性の後退ではなく、実装段階の現実を制度化する成熟プロセスと評価できる。
同時に、本戦略はカーボンクレジット業界にとって構造的転換点となる。SBTi が高品質カーボンクレジットとブック・アンド・クレームを Corporate Net-Zero Standard V2 に正式に組み込み、品質判定をICVCM等の既存フレームワークに委任する設計を確定させたことで、VCMの正統性付与構造が「SBTi認定 × ICVCM等認証」の二重構造として固定化する。ICVCM 認定方法論およびICVCM整合カーボンクレジットのプレミアム化が、企業需要側から強く後押しされる構図が成立する。
日本企業にとっての実務的焦点は3点である。第一に Corporate Net-Zero Standard V2 への移行タイミング、2028年の次期目標サイクル開始前に新基準下での目標再設定が求められる。第二にサプライチェーン経由のSME巻き込み圧力、日本企業がサプライヤーに SBT 設定を要求する流れは加速し、自社の Scope 3戦略と直結する。第三にカーボンクレジット調達戦略の再構築、ICVCM整合性がSBTi目標達成上の事実上の前提となる中、調達基準をCCPsベースに統一する必要性が高まる。
参考:https://sciencebasedtargets.org/about-us/our-2026-2030-strategy