欧州委員会は12月4日、欧州排出量取引制度(EU ETS)の収益を原資とする「イノベーション基金」において、総額52億ユーロ(約8,300億円)規模の新たな資金提供公募を開始した。脱炭素化が困難な産業部門における炭素除去および排出削減を加速させるため、ネットゼロ技術、クリーン水素、そして初となる「産業プロセス熱」の脱炭素化を対象に、炭素価格が生み出す巨額の資金を市場へ還流させる。
ETS収益を原資とした3つの柱 今回の公募は、EUが掲げる2030年の気候目標および2050年の気候中立達成に向けた重要なステップとなる。資金配分の内訳は以下の通りである。
- ネットゼロ技術(29億ユーロ/約4,600億円)
再生可能エネルギー、エネルギー貯蔵、ヒートポンプ、水素製造用部品(電解槽など)の製造・導入を支援する。小規模な技術革新も重視しており、中小企業(SME)単独のプロジェクトには加点評価を行う制度も導入された。 - 水素生産(13億ユーロ/約2,000億円)
「欧州水素銀行」の下で行われる3回目のオークション。非生物由来の再生可能燃料(RFNBO)としての水素生産に対し、検証された生産量に基づいて10年間の固定プレミアム(補助金)を支給する。今回は海事・航空部門をオフテーカー(引取先)とする生産者向けの枠も新設された。 - 産業プロセス熱(10億ユーロ/約1,500億円)
今回初となる「産業脱炭素化銀行」のパイロットオークション。産業排出量の4分の3を占めるプロセス熱の電化や、太陽熱・地熱などの直接利用を支援する。
「CO2削減コスト」を競う入札メカニズム 特筆すべきは、これらの資金提供が従来の補助金とは異なり、カーボンクレジット市場の論理を用いた「競争入札(オークション)」形式を採用している点だ。
水素および産業熱のオークションは「ペイ・アズ・ビッド(入札価格払い)」方式で行われる。特に産業熱の入札では、「CO2を1トン削減するためのコスト(ユーロ/tCO2)」でプロジェクトがランク付けされ、予算枠が埋まるまで費用対効果の高い順に採択される。これは、炭素削減価値を定量化し、最も効率的な技術に資金を流すという、カーボンファイナンスの核心的なアプローチである。
また、EUの審査基準を満たしながら予算不足で選外となったプロジェクトに対し、加盟国が自国資金で支援できる「オークション・アズ・ア・サービス」の仕組みも拡大している。今回の入札にはドイツとスペインが参加を表明しており、ドイツは水素生産に13億ユーロ(約2,000億円)を追加拠出する予定だ。
ETS2延期による「炭素収益」の損失リスク 一方で、ETSの適用範囲拡大を巡っては政治的な摩擦も生じている。建物と道路輸送を対象とした新たな排出量取引制度「ETS2」の導入開始を2027年から2028年へ1年延期することで合意がなされたが、これによる逸失利益が懸念されている。
デンマーク気候省のクリスチャン・ステンバーグ副事務次官は12月2日の会合で、「ETS2の延期により、デンマークだけで約5億ユーロ(約800億円)の歳入を失うことになる」と指摘した。
ETS2の延期は、エネルギー価格高騰を懸念するポーランドやイタリアなどの加盟国に配慮した政治的妥協の結果である。しかし、ステンバーグ氏は「輸送と建物の目標達成において、ETS2は最も費用対効果の高い手段だ」と述べ、炭素価格メカニズムの遅れが経済全体のコスト効率を悪化させると警告した。
今後の見通し イノベーション基金によるネットゼロ技術の公募は2026年4月23日まで、水素および産業熱のオークションは同2月19日まで申請を受け付ける。
EUは、既存のETSから得られる潤沢な資金を「イノベーション基金」を通じて技術開発に再投資する一方、市民生活に直結するETS2の導入においては慎重な調整を迫られている。炭素価格を財源とした産業転換モデルが、政治的・経済的バランスの中でどのように機能していくか、今後の動向が注目される。
参考:https://ec.europa.eu/commission/presscorner/detail/en/ip_25_2858

