地球最大の炭素吸収源である「海洋」。その計り知れない力を、人類は気候変動対策に安全に活かすことができるのでしょうか。この壮大な問いに挑むのが、CDR（二酸化炭素除去）の新たなフロンティア「mCDR（Marine Carbon Dioxide Removal、海洋二酸化炭素除去）」です。この記事では、大きな可能性と未知のリスクを秘めたmCDRについて、そのアプローチと、国際社会が今まさに直面している大きな課題を解説します。mCDR（海洋二酸化炭素除去）とは？mCDRとは、一言で言うと「海洋が持つ自然の生物学的・化学的なプロセスを人為的に加速させることで、大気中のCO2の吸収・貯留を促進する技術や活動」の総称です。「海洋CDR」や「OCDR（Ocean CDR）」とも呼ばれます。その目的は、大気中から吸収したCO2を、海洋の表層ではなく、深層や海底、あるいは海洋生物のバイオマスといった形で、数百年から数千年以上にわたって安定的に隔離することにあります。なぜmCDRが注目されるのか？mCDRは、陸上のCDRアプローチにはない、独自のポテンシャルを持つことから注目されています。圧倒的なスケールの可能性地球の表面の7割を占める海洋は、その広大さゆえに、理論上は陸上よりもはるかに大規模なCO2除去を実現できる可能性があります。土地利用との競合がないBECCSや大規模な植林とは異なり、食料生産や居住のための貴重な土地を必要としません。海洋酸性化の緩和という共同便益mCDRの一部の手法は、CO2吸収と同時に、海洋生態系を脅かす「海洋酸性化」を緩和する効果も期待されています。mCDRの主なアプローチmCDRの研究はまだ初期段階ですが、主に以下のようなアプローチが検討されています。海洋の化学プロセスを促進する方法海洋アルカリ化エンハンスメント（Ocean Alkalinity Enhancement, OAE）アルカリ性の鉱物（カンラン岩など）を細かく砕いて海洋に散布することで、海水のアルカリ度を高め、大気からのCO2吸収能力を化学的に向上させる手法。mCDRの中で最も有望なアプローチの一つと見なされていますが、生態系への影響評価が不可欠です。電気化学的手法海水に電気を流すことで、CO2を直接分離したり、海水のアルカリ度を高めたりする技術。再生可能エネルギーの活用が前提となります。海洋の生物プロセスを促進する方法大型海藻（昆布など）の養殖と沈降巨大な海藻を大規模に養殖し、成長過程でCO2を吸収させます。その後、海藻を収穫し、炭素が分解されにくい深海へと沈めることで、炭素を長期的に隔離します。海洋肥沃化（Ocean Fertilization）植物プランクトンの成長に必要な鉄などの栄養素を海洋に散布し、光合成を活発化させてCO2を吸収させる考え方。しかし、生態系のバランスを大きく崩すリスクが極めて高く、最も物議を醸している手法の一つです。国際的な動向とガバナンスの課題mCDRの最大のテーマは、技術開発そのものよりも「ガバナンス（統治）」です。科学的知見の不足と研究の加速mCDRの各手法が、実際にどれだけのCO2を除去でき、どのような生態系リスクをもたらすのか、その科学的知見はまだ圧倒的に不足しています。そのため、米国や欧州では現在、大規模な研究開発プログラムが立ち上がり、影響評価やモニタリング技術の開発が急ピッチで進められています。国際ルールの必要性海洋は国境のない「地球の共有財産（グローバル・コモンズ）」です。ある国が一方的にmCDRを大規模に実施すれば、その影響は海流に乗って他国や公海にまで及び、漁業資源などに予期せぬ悪影響を与える可能性があります。廃棄物の海洋投棄を規制する「ロンドン条約・議定書」などの既存の国際法で、科学研究と称したmCDRをどう扱うべきか、現在、国際的な議論が進行中です。メリットと課題メリット理論上、ギガトン単位の非常に大規模なCO2除去ポテンシャルを持つ。陸上での食料生産などと土地利用の競合を起こさない。海洋酸性化の緩和など、ユニークな共同便益をもたらす可能性がある。デメリット（課題）生態系への影響が未知数：最も大きな課題。海洋生態系という極めて複雑なシステムへの人為的な大規模介入は、予測不能な連鎖反応を引き起こすリスクがある。MRV（測定・報告・検証）の困難さ：広大で常に動いている海洋において、CO2がどれだけ、どれくらいの期間固定されたかを正確に測定・検証する技術がまだ確立されていない。国際的なガバナンスの欠如：実施に関する明確な国際ルールや合意が存在しない。まとめと今後の展望本記事では、mCDRが気候変動対策の切り札となる大きな可能性を秘めつつも、科学的・倫理的に極めて慎重な扱いが求められる、未開のフロンティアであることを解説しました。【本記事のポイント】mCDRは、海洋の力を利用して大気中のCO2を除去するアプローチの総称。海洋アルカリ化（OAE）*などが有望視されるが、全ての技術はまだ研究開発の初期段階。最大の魅力は規模のポテンシャル、最大の懸念は生態系への予期せぬ影響。技術開発以上に、国際的なガバナンス（ルール作り）の確立が急務。mCDRは、現時点では「直ちに展開すべき解決策」ではなく、「その可能性とリスクを、社会全体で真摯に研究すべき対象」と言えます。国際開発の視点からは、特に途上国の沿岸コミュニティや漁業に依存する人々の暮らしを守るためにも、「予防原則」に立った、透明性の高い研究とオープンな対話が不可欠です。人類がこの偉大な海の力を借りる資格があるのかどうか、その答えを見出すための真摯な探求が今、始まったばかりです。