気候変動という地球規模の課題に、世界で初めて法的な拘束力を持つ目標を定めた京都議定書。その目標を、各国がより柔軟かつ経済的に効率良く達成するために、3つの協力的な仕組み(京都メカニズム)が創設されました。この記事では、その中でも、国と国とが直接「排出する権利」を売買することを可能にした、中核的な制度「国際排出量取引(International Emissions Trading, IET)」について、その仕組みと歴史的意義を解説します。国際排出量取引(IET)とは?国際排出量取引(IET)とは、一言で言うと「京都議定書の下で、排出削減目標を持つ先進国同士が、互いの排出枠を売買できる制度」のことです。これは、京都議定書の第17条に規定されていました。この制度は、いわば「国レベルのキャップ&トレード制度」です。キャップ(Cap):まず、各先進国には、排出できる温室効果ガスの総量の上限(キャップ)として、AAU(割当量単位)が割り当てられました。トレード(Trade):自国の排出量が上限を下回り、排出枠(AAU)が余った国は、それを市場で売却できました。逆に、排出量が上限を超えてしまいそうな国は、市場から排出枠を購入して、自国の目標を達成することができました。なぜIETが重要だったのか?IETは、国際的な気候変動対策に「市場経済」の考え方を本格的に導入した、画期的な制度でした。経済効率性の追求IETの最大の目的は、世界全体で見た時の排出削減コストを最小化することにありました。各国は、自国内で無理にコストの高い削減努力をする代わりに、市場でより安価な排出枠を購入するという選択肢を得ました。これにより、より経済的に効率良く、地球全体の目標を達成することが目指されました。目標達成の柔軟性の確保予期せぬ経済成長などで、国内の排出量が目標を超えそうになった国でも、IETを通じて他国から排出枠を購入することで、国際公約である目標を遵守するための柔軟な手段を持つことができました。国際的な炭素価格の形成AAUなどの排出枠が国境を越えて取引されることで、世界で初めて「国際的な炭素価格」が形成されました。これは、その後の気候変動に関する政策や投資の判断において、重要な指標となりました。IETの仕組みと取引されたユニットIETは、京都議定書が生み出した全てのクレジット(ユニット)が取引される、中心的な市場として機能しました。取引の対象となったユニットIET市場では、以下の全ての京都ユニットが取引可能でした。AAU(割当量単位):各先進国に割り当てられた、基本的な排出枠。CER(認証排出削減量):途上国での削減プロジェクト(CDM)から生まれたクレジット。ERU(排出削減単位):先進国間の削減プロジェクト(JI)から生まれたクレジット。RMU(吸収単位):先進国の国内森林吸収源活動から生まれたクレジット。 これらのユニットは相互に交換可能であり、IETはこれら全てを統合するハブ市場の役割を担いました。歴史的な課題:「ホットエアー」の影響IETが直面した最大の課題は、制度の信頼性を揺るがした「ホットエアー」問題です。これは、旧ソ連の崩壊に伴う経済の停滞によって、ロシアやウクライナなどが、実際の削減努力なしに手にした大量の余剰排出枠(AAU)を指します。この「ホットエアー」がIET市場に大量に供給されると、炭素価格が暴落し、真摯に削減努力を行っている国々の取り組みの価値が失われることが強く懸念されました。この経験は、「キャップ&トレード制度の環境的な健全性は、そもそも最初に設定されるキャップ(排出枠の総量)の野心性と妥当性に完全に依存する」という、極めて重要な教訓を国際社会に残しました。パリ協定の時代への教訓IETは、京都議定書という特定の枠組みに固有の制度であり、全ての国が自主的な目標を掲げる現在のパリ協定下では、IETという制度そのものは存在しません。しかし、その基本概念は、現在のパリ協定第6条2項の下での「協力的アプローチ」(ITMOsの取引)に直接的に受け継がれています。京都議定書時代のトップダウン的な排出枠割当(AAU)が「ホットエアー」問題を生んだ反省から、パリ協定では、各国が自主的に目標を設定し、取引の際には「対応調整」によって二重計上を厳格に防ぐという、より堅牢な仕組みが設計されています。まとめと今後の展望本記事では、国際排出量取引(IET)が、京都議定書時代の「国別キャップ&トレード制度」であり、国際炭素市場の礎を築いたことを解説しました。【本記事のポイント】IETは、京都議定書第17条に定められた、先進国間の排出枠取引制度。AAUを中心に、全ての京都ユニットが取引され、経済効率性の向上に貢献した。「ホットエアー」問題が、制度の信頼性を脅かす最大の課題であった。その経験と教訓は、現在のパリ協定第6条のルール設計に深く活かされている。IETは、人類が初めて経験した、地球規模での環境制約と市場経済を結びつける壮大な社会実験でした。その道のりは平坦ではありませんでしたが、そこで得られた知見は、今日のより洗練されたグローバルな気候変動協力体制を築く上での、かけがえのない財産となっています。IETの歴史を学ぶことは、私たちが未来のカーボン市場をいかにして、より公正で、より実効性のあるものにしていくべきかを考える上で、重要な示唆を与えてくれるのです。