地球の気候は、数百万年という壮大な時間スケールで見ると、岩石が雨水や大気中のCO2と反応してゆっくりと風化する「自然の炭素循環」によって、安定に保たれてきました。もし、この地質学的なプロセスを、人間の手で数十年というスケールにまで加速できるとしたら。この記事では、その野心的なアイデアを形にする、新しい炭素除去(CDR)技術「岩石風化促進(Enhanced Rock Weathering, ERW)」について、その仕組み、農業との驚くべきシナジー、そして実用化に向けた挑戦を解説します。岩石風化促進(ERW)とは?ERWとは、一言で言うと「CO2を吸収する性質を持つ特定の岩石を細かく砕き、農地などに散布することで、自然の風化プロセスを人為的に加速させ、大気中のCO2を吸収・固定する技術」のことです。このプロセスは、主に2つのステップで構成されます。粉砕(Grinding):玄武岩(バサルト)やかんらん岩といった、カルシウムやマグネシウムなどのアルカリ成分を豊富に含むケイ酸塩岩を、反応が起きやすいように、砂のような細かい粉末状に粉砕します。散布(Spreading):この岩石粉末を、農地や森林の土壌に散布します。土壌中の水分や、植物の根や微生物の活動によって、岩石とCO2の化学反応が促進されます。反応の結果、CO2は安定した炭酸塩のイオンとして水に溶け込み、最終的には河川を通じて海洋へと運ばれ、数万年以上にわたって安定的に貯留されると考えられています。なぜERWが重要なのか?ERWは、単なる炭素除去技術に留まらない、特に農業分野における計り知れない「共同便益(Co-benefits)」を持つことから、極めて有望な解決策と見なされています。高い永続性と巨大なポテンシャル原料となる玄武岩などは、地球上に豊富に存在します。そして、一度固定された炭素は、地質学的な時間スケールで安定的に貯留されるため、極めて「永続性(Permanence)」の高い炭素除去を実現します。農業との強力なシナジーこれがERWの最大の魅力です。 土壌の肥沃化と収穫量の向上: 岩石粉末が分解される過程で、カリウム、カルシウム、マグネシウム、ケイ素といった、植物の成長に不可欠なミネラルが土壌に供給されます。これは、天然の「遅効性肥料」として機能し、土壌の健康を改善し、作物の収穫量を増やす効果が期待されます。 化学肥料の削減: 土壌のpHを改善し、必要なミネラルを供給することで、高価な化学肥料や石灰の使用量を減らすことができます。これは、途上国の小規模農家の経済的負担を軽減し、持続可能な農業への移行を支援します。海洋酸性化の緩和ERWによって生成されたアルカリ性の炭酸イオンが海洋に流れ込むことで、CO2によって引き起こされる海洋酸性化を中和する効果も期待されています。ERWの仕組みと最大の課題仕組み:自然の化学反応の加速ERWの根幹は、「ケイ酸塩岩 + CO2(水に溶けた状態) → 炭酸水素イオン + 鉱物イオン」という、自然界で常に起きている化学反応です。岩石を細かく砕いて表面積を増やすことで、この反応の速度を劇的に高めます。最大の課題:MRV(測定・報告・検証)ERWの実用化における最大のハードルが、このMRVです。土壌という複雑な環境の中で、ゆっくりと進む化学反応によって、「実際にどれだけのCO2が吸収されたのか」を正確に測定することは、極めて困難です。自然に起きる風化と、人為的に促進された風化をどう切り分けるか。安価で、拡張性のある信頼性の高いMRV手法の開発が、ERWがカーボンクレジット市場で認められるための鍵となります。国際的な動向と主要プレイヤー研究開発とフィールド試験の段階2025年現在、ERWはまだ商業化の初期段階にあり、世界中の大学や研究機関、スタートアップ企業が、実際の農地で大規模な実証実験(フィールド試験)を行い、CO2吸収効率や作物への影響、そしてMRV手法の検証を進めています。主要な開発企業と先行購入による支援米国のLithos Carbonや、英国のUNDOといったスタートアップが、この分野のフロントランナーです。彼らは、AIや最新の土壌分析技術を駆使してMRVの課題解決に取り組んでいます。また、Frontierのような炭素除去購入基金が、これらの企業と先行購入契約を結ぶことで、実用化に向けた重要な研究開発資金を提供しています。メリットと課題メリット永続性の高い、大規模な炭素除去のポテンシャルを持つ。土壌改良と食料生産性の向上という、極めて強力な共同便益をもたらす。原料となる岩石が、世界中に豊富に存在する。デメリット(課題)MRV(測定・報告・検証)が非常に難しく、まだ標準的な手法が確立されていない。岩石の採掘、粉砕、輸送に多くのエネルギーとコストを要し、その過程でのCO2排出も考慮する必要がある。原料となる岩石に、カドミウムなどの有害な重金属が含まれていないか、厳格な品質管理が必要。まとめと今後の展望本記事では、岩石風化促進(ERW)が、地球の自然な炭素循環を加速させ、気候変動対策と持続可能な農業を同時に実現する、大きな可能性を秘めた技術であることを解説しました。【本記事のポイント】ERWは、玄武岩などの岩石粉末を農地に散布し、CO2を吸収させる炭素除去(CDR)技術。最大の魅力は、炭素を永続的に固定しつつ、土壌を肥沃にし、農業生産性を向上させるという強力な共同便益。実用化に向けた最大のハードルは、CO2吸収量を正確に測定するMRV技術の確立。現在は、世界中で実証実験が進められている研究開発段階。国際開発の視点からも、ERWは極めて魅力的なソリューションです。それは、途上国の多くの人々が直面する「土壌の劣化」と「食料不安」という課題に対し、気候変動対策を通じて直接的な解決策を提供する可能性があるからです。今後、MRVという科学的な最後の難関を乗り越えることができれば、この古代から続く地球の営みは、人類の未来を支える最も革新的な気候ソリューションの一つになるかもしれません。