もし、一枚の1万円札をAさんとBさんが同時に「自分のもの」として数えてしまったら、会計の信頼性は失われます。これと同じことが、気候変動対策の世界でも起こり得ます。それが「ダブルカウント(二重計上)」という、カーボン市場の信頼性を根底から揺るがす重大な問題です。この記事では、ダブルカウントがなぜ問題で、どのような種類があり、そして国際社会がそれをいかにして防ごうとしているのかを解説します。ダブルカウント(二重計上)とは?ダブルカウントとは、一言で言うと「一つのCO2排出削減・吸収量が、複数の国や企業によって、それぞれの目標達成のために重複して主張(カウント)されてしまうこと」です。USAIDの用語集でも、この問題は「一つの排出削減活動やプロジェクトから生じた単一の温室効果ガス排出削減量が、複数の当事者によって一度以上請求(claim)されること」と指摘されています。結果として、地球全体では1トンしかCO2が削減されていないのに、帳簿上は2トン、3トンと、あたかも多くの削減が達成されたかのように見えてしまう、という深刻な事態を引き起こします。なぜダブルカウントが問題なのか?ダブルカウントは、気候変動対策への信頼と努力を無に帰す「市場の癌」とも言えます。環境的な健全性(Environmental Integrity)の毀損地球の大気から見れば、削減量は1トンだけです。ダブルカウントは、この事実を歪め、カーボンクレジットや各国の削減目標の信頼性を根本から破壊します。「ホットエアー」の創出と対策の遅延削減量が水増しされることで、実際には存在しない「ホットエアー(熱い空気)」が市場に生まれます。これにより、各国や企業は自らの削減努力を緩めてしまい、真の気候変動対策が遅れる原因となります。国際協力と資金フローの阻害この問題が放置されれば、カーボン市場への信頼は失墜し、途上国の優れた削減プロジェクトに流れるはずだった、先進国からの重要な気候変動ファイナンスが滞ってしまいます。ダブルカウントの主な種類ダブルカウントには、主に以下の3つのパターンがあります。二重発行(Double Issuance)一つのCO2削減プロジェクトが、VerraとGold Standardなど、複数の異なるクレジット認証機関に登録され、それぞれからクレジットが二重に発行されてしまうケース。これは、各認証機関の強固な登録簿(レジストリ)システムによって、現在ではほぼ防がれています。二重使用(Double Use)シリアル番号が同じ一つのクレジットが、A社とB社によって二重に「オフセットしました」と主張されるケース。これも、クレジットの使用(償却)履歴を透明性高く管理する登録簿システムによって防がれます。二重主張(Double Claiming)【最も重要な課題】これが、現在、国際社会が直面している最も複雑で重要な課題です。例えば、途上国A国で実施された植林プロジェクトが、1トンのCO2吸収クレジットを生み出したとします。主張①:先進国B国のC社が、このクレジットを購入し、自社の排出量のオフセットを主張する。主張②:プロジェクトが実施されたA国も、この1トンの吸収量を、自国のパリ協定における削減目標(NDC)の達成分としてカウントする。 この結果、「1つの成果」が「2つの主体」によって主張され、ダブルカウントが発生します。ダブルカウントを防ぐ仕組みこの「二重主張」の問題を解決するため、パリ協定第6条では「対応調整(Corresponding Adjustments, CAs)」という国際的なルールが導入されました。対応調整の仕組み対応調整とは、クレジットを創出した国(ホスト国)が、そのクレジットを他国での利用のために移転する際に、自国の削減目標の達成状況から、そのクレジット分を差し引く(つまり、自国の成果として数えるのを諦める)会計上の調整です。先の例で言えば、A国がクレジットを輸出した際に「対応調整」を行うことで、その1トンの削減量を主張する権利はC社に完全に移転され、ダブルカウントが防がれます。国際的な動向と今後の課題自主的炭素市場(VCM)での対応Verraなどの主要な認証機関は、ICVCMの要請に応じ、クレジットに「対応調整済み」であるか否かを示すラベルを付ける仕組みを導入し始めています。これにより、企業は自社の主張の目的に応じて、適切なクレジットを選択できるようになります。日本の役割と課題日本が推進する「二国間クレジット制度(JCM)」も、パリ協定第6条の下で運用されるため、この対応調整のルールを厳格に適用し、パートナー国との間で透明性の高い会計処理を行うことが、制度の国際的な信頼性を保つ上で不可欠です。まとめと今後の展望本記事では、ダブルカウントがカーボン市場の信頼性を脅かす深刻な問題であり、国際社会がそれを防ぐために精緻なルールを構築していることを解説しました。【本記事のポイント】ダブルカウントは、1つのCO2削減量を、複数の主体が重複して主張してしまう問題。特に、国(NDC目標)と企業(自主的な目標)の間で起こる「二重主張」が最大の課題。パリ協定第6条の下での解決策が「対応調整(Corresponding Adjustments)」。クレジットの売り手国が「対応調整」を行うことで、買い手はその削減量を正当に主張できる。「対応調整」のルールを、世界中の国々が誠実に、かつ透明性高く実施していくこと。それが、国境を越えたカーボン市場が真に機能し、途上国への公正な資金還流を促し、地球全体の気候変動対策を加速させるための、最も重要な礎となります。