国だけでなく、一つの「州」が、世界をリードする気候変動対策を打ち出し、巨大な経済圏を脱炭素へと導くことができる。その最も成功した実例が、「カリフォルニア州キャップ&トレード制度」です。世界第5位の経済規模を誇るカリフォルニアが、どのようにして経済成長と排出削減を両立させてきたのか。この記事では、その核心をなすこの制度について、その洗練された仕組み、特徴、そして世界に与える影響を解説します。カリフォルニア州キャップ&トレード制度とは?カリフォルニア州キャップ&トレード制度とは、一言で言うと「州内の主要な温室効果ガス排出源に対し、排出量に厳格な上限(キャップ)を設け、その範囲内で企業が排出枠(アローワンス)を取引(トレード)することを義務付ける、州法に基づいた規制市場」のことです。この制度は、2006年に成立した画期的な州法「地球温暖化対策法(AB 32)」を基盤とし、2013年から本格的に稼働しています。州の気候変動政策の柱であり、EU ETSと並んで、世界で最も影響力のあるカーボン市場の一つです。この制度の運営は、州の環境規制当局であるカリフォルニア州大気資源局(CARB)が担っています。なぜこの制度が重要なのか?この制度は、単なる一州の取り組みに留まらず、世界中の気候変動政策のモデルケースとなっています。経済成長と両立する脱炭素化の証明制度開始から10年以上にわたり、カリフォルニア州は力強い経済成長を続けながら、州全体の温室効果ガス排出量を着実に削減してきました。これは、野心的な気候変動政策が、必ずしも経済の足かせにはならないことを実証した、極めて重要な成功事例です。グリーンな投資のための巨大な財源創出後述する排出枠のオークション(競売)を通じて、州はこれまでに数十億ドル(数千億円)規模の歳入を得ています。この資金は「温室効果ガス削減基金」に蓄積され、再生可能エネルギーの導入、公共交通機関の整備、そして特に環境汚染の影響を強く受けてきた低所得者層コミュニティへの重点的な投資などに活用されています。サブナショナル(国以外の主体)のリーダーシップの象徴国レベルの対策が政治的に停滞する中にあっても、一つの州が強力なリーダーシップを発揮し、実効性のある大規模なカーボン市場を構築・運営できることを世界に示しました。 制度の仕組みと特徴この制度は、長年の経験から得られた、多くの洗練された仕組みを持っています。キャップ&トレードの基本州内の大規模な発電所、工場、燃料供給業者などに対し、年々減少していく排出量の上限(キャップ)が設定されます。対象企業は、自らの排出量に見合うだけの排出枠(アローワンス)を、毎年州政府に提出する義務があります。オークションと無償割当排出枠の大部分は、州が四半期ごとに実施するオークションで販売され、その収益が前述の基金となります。ただし、国際競争にさらされ、かつカーボンリーケージのリスクが高い一部の産業(セメント、鉄鋼など)には、その負担を軽減するために、一定量の排出枠が無償で割り当てられます。オフセット・クレジットの活用企業は、排出枠提出義務の一部(上限あり)を、CARBが承認したオフセット・クレジットで代替することが認められています。ただし、利用できるのは、ACR(American Carbon Registry)やCAR(Climate Action Reserve)といった、CARBが認定した登録簿が発行し、かつ、米国内の森林管理やオゾン層破壊物質の破壊といった、CARBが定めた厳格な基準(プロトコル)を満たしたクレジットに限られます。リンケージ(市場の連携)カリフォルニア州の制度は、カナダのケベック州が運営する同様の制度と「リンク」しています。これにより、両市場の参加者は互いの排出枠やクレジットを取引でき、より規模が大きく、流動性の高い、安定した単一市場が形成されています。国際的な影響と日本への示唆世界のモデルとしてカリフォルニアの制度設計、特にオークションの運営方法、オフセットの活用ルール、そしてリンケージの経験は、世界中の国や地域が新たなカーボン市場を設計する際の、重要な手本となっています。日本への示唆日本が現在構築を進めている「GX-ETS」にとって、カリフォルニアの10年以上にわたる経験は、学ぶべき点の多い貴重な事例です。キャップの設定方法、オークション収入の使途、そして国内クレジット(J-クレジット)をどのようにオフセットとして活用していくか、といった点において、多くの示唆を与えてくれます。メリットと課題メリット「キャップ」の存在により、州全体の排出削減量が確実に保証される。企業に費用対効果の高い削減を促す、柔軟な市場メカニズム。オークションを通じて、グリーンで公正な社会への再投資のための、巨額の財源を生み出す。デメリット(課題)オフセットの信頼性への批判: 利用が認められているオフセット・クレジットの一部(特に一部の森林プロジェクト)について、その追加性やCO2削減量の計算方法の妥当性を疑問視する声が、専門家から継続的に上がっている。公平性の問題: 制度が、大気汚染などが深刻な低所得者層コミュニティに、さらなる不利益を与えていないか、という「環境正義」の観点からの検証が、常に求められる。まとめと今後の展望本記事では、カリフォルニア州キャップ&トレード制度が、州レベルの気候変動対策として世界で最も成功した、洗練されたコンプライアンス市場であることを解説しました。【本記事のポイント】カリフォルニア州の制度は、州法に基づく、強制力のあるキャップ&トレード市場。オークションによる歳入を、グリーン投資や低所得者コミュニティ支援に還元する仕組みが特徴。ACRやCARなどが発行する、州が承認した高品質なオフセットの利用を一部認めている。カナダのケベック州と市場がリンクしており、国際的な協力のモデルとなっている。カリフォルニア州の挑戦は、野心的な気候変動政策と、力強い経済、そして社会的な公平性をいかにして両立させるか、という問いに対する一つの優れた答えを提示しています。州が掲げるさらに厳しい2030年、2045年の削減目標に向けて、今後、キャップはさらに引き下げられ、制度はより強化されていくでしょう。国際開発の視点からも、この制度の最も重要な遺産は、「炭素市場は、ただCO2を減らすだけでなく、より公正で、より強靭な社会を築くための財源を生み出すエンジンにもなり得る」ということを、現実の成功をもって世界に示したことにあるのです。