気候変動対策において、先進国の資金や技術を、途上国の排出削減プロジェクトに結びつける。この「南北協力」という理想を、世界で初めてグローバルな市場メカニズムとして実現しようとした壮大な社会実験が、京都議定書の下で創設された「クリーン開発メカニズム(Clean Development Mechanism, CDM)」です。この記事では、かつての国際カーボン市場で中心的な役割を果たしたCDMについて、その画期的な仕組み、達成した成果、そして今日の気候変動政策に多くの重要な教訓を残した深刻な課題を解説します。クリーン開発メカニズム(CDM)とは?CDMとは、一言で言うと「先進国が途上国内で温室効果ガスの排出削減プロジェクトを実施し、その結果生まれた削減量を、自国の目標達成に利用できる仕組み」のことです。これは、京都議定書が定めた3つの柔軟性措置(京都メカニズム)の一つです。この仕組みを通じて発行されたカーボンクレジットが、「CER(認証排出削減量)」と呼ばれます。CDMは、公式に以下の「二重の目的」を掲げていました。途上国の持続可能な開発を支援すること。先進国が、京都議定書で定められた排出削減目標を、より費用対効果の高い方法で達成するのを支援すること。なぜCDMが重要だったのか?CDMは、その後の気候変動ファイナンスのあり方を決定づける、多くの先駆的な役割を果たしました。世界初のグローバルな気候変動ファイナンス・メカニズムCDMは、それまで公的開発援助(ODA)などが中心だった途上国支援に、「カーボンクレジット市場」という新しい民間資金の流れを大規模に創出しました。グリーン投資の動員CDMは、世界で7,800件以上のプロジェクトを登録し、再生可能エネルギーの普及やエネルギー効率の改善など、数十億ドル規模の投資を途上国に動員しました。グローバルな専門家と制度の構築CDMプロジェクトの計画・検証・登録というプロセスを通じて、世界中の途上国に、排出量を算定・報告・検証(MRV)するための専門知識や、それを管轄する政府機関(DNA:指定国家機関)といった、今日のカーボン市場に不可欠な人的・制度的インフラが構築されました。CDMの仕組みと深刻な課題CDMのプロジェクトは、国連のCDM理事会の監督下で、厳格な審査を経てCERを発行しました。しかし、その輝かしい理念の裏で、多くの深刻な課題が指摘され、それが今日のパリ協定のルールに大きな教訓を残しています。課題①:追加性(Additionality)の形骸化CDMに対する最大の批判の一つは、多くのプロジェクトの「追加性」への疑問でした。特に、経済成長が著しい中国やインドなどで実施された大規模な水力発電や風力発電プロジェクトは、「CDMの支援がなくてもいずれ建設されたのではないか」と厳しく指摘されました。もしそうであれば、そこで生まれたCERは「見せかけの削減量」となり、地球全体の排出削減には貢献しないことになります。課題②:持続可能な開発への貢献不足「途上国の持続可能な開発への貢献」というもう一つの目的も、しばしば軽視されました。CERの価格を最大化することが優先され、プロジェクトが地域社会の雇用や健康、教育といった側面にどれだけ貢献しているかについての審査やモニタリングが不十分なケースが多く見られました。 課題③:甚だしい地域的・技術的な偏りCDMによる投資は、その8割近くが中国、インド、ブラジル、韓国といった一部の新興国に集中しました。その結果、最も支援を必要とするアフリカなどの後発開発途上国(LDCs)には、資金がほとんど届かないという「地域的な不均衡」が生まれ、開発支援のツールとしての公平性に大きな疑問符が付きました。パリ協定への教訓とCDMの遺産CDMの運用は、京都議定書の第二約束期間が終了した2020年をもって、その歴史的な役割を終えました。しかし、その経験は、現在のパリ協定第6条4項の下で構築が進められている新しい国際市場メカニズムの設計に、色濃く反映されています。新しいメカニズムは、CDMの失敗を繰り返さないため、より厳格な追加性の基準を設けることプロジェクトがホスト国の持続可能な開発に貢献することを明確に要求することクレジットの一部を自動的に無効化し、地球全体の排出削減に貢献する(OMGE)仕組みを導入することクレジット取引から得られる収益の一部を、途上国の適応策を支援する「適応基金」に拠出すること といった、多くの改善が図られています。メリットと課題(歴史的総括)メリット世界初のグローバルなプロジェクト型カーボン市場を創設し、その機能性を証明した。民間資金を中心に、大規模な気候変動ファイナンスを途上国に動員した。世界中にカーボン市場に関する専門知識と制度的基盤を構築した。デメリット(課題)プロジェクトの「追加性」に関する信頼性の問題が最後までつきまとった。投資が一部の新興国に著しく偏り、最も貧しい国々への貢献が限定的だった。プロセスが官僚的で、小規模なコミュニティ・プロジェクトの参加を妨げた。まとめと今後の展望本記事では、クリーン開発メカニズム(CDM)が、先進国と途上国を結ぶ、世界初のグローバルな市場メカニズムであり、大きな成果と同時に深刻な課題を残した、壮大な社会実験であったことを解説しました。【本記事のポイント】CDMは、京都議定書の下で、途上国での削減プロジェクトからCERを創出する仕組み。気候変動対策と持続可能な開発という「二重の目的」を掲げていた。大きな成果を上げた一方、追加性、地域的不均衡、開発貢献の不足といった深刻な課題を抱えていた。その経験と教訓は、パリ協定第6条の新しいメカニズムの設計に全面的に活かされている。CDMは、その歴史的使命を終えようとしています。しかし、その遺産は、気候変動という地球規模の課題に対し、市場メカニズムがいかに強力なツールとなり得るか、そして、その制度設計を一つ間違えれば、いかにその信頼性と公平性が損なわれうるかを、私たちに教えてくれました。CDMという偉大な先駆者の肩の上に立って、より公正で、より実効性のある次世代のメカニズムを構築すること。それが、今の国際社会に課せられた重い責任です。