2026年2月、トランプ政権は、米国の気候変動対策における歴史的な転換点を迎えた。
環境保護局(EPA)は、2009年にオバマ政権下で採択された科学的知見に基づく「危惧宣告(Endangerment Finding)」を正式に撤回した。
この決定は、温室効果ガス(GHG)が公衆衛生と福祉を脅かすという法的根拠を消失させるものであり、連邦政府による排出規制の土台そのものを破壊する。
トランプ大統領はこの措置を「米国史上最大の規制緩和」と位置づけ、自動車産業の再生と消費者コストの削減を強調している。しかし、この「米国発の衝撃」は、脱炭素を目指す世界の市場に深刻な不確実性と多角的な論争を巻き起こしている。
法的根拠の消失と連邦規制の終焉
EPAのリー・ゼルディン(Lee Zeldin)長官は、今回の撤回がクリーンエア法の誤った解釈を正すものであると主張した。従来の解釈では、地球規模の温暖化を引き起こすGHGを同法の規制対象としていたが、新政権はこれを局地的・地域的な汚染物質に限定されるべきものと定義し直した。この法的枠組みの変更により、連邦政府による自動車の排気管からの排出基準は事実上廃止される。
政権側の試算によれば、この規制緩和によって自動車メーカーのコンプライアンスコストは総額で約150兆円(1兆ドル)削減され、車両1台あたり約36万円(2,400ドル)のコストダウンが可能になるという。
一方で、環境保護団体や民主党勢力は猛烈に反発しており、バラク・オバマ元大統領はSNS上で「気候変動との戦う力が弱まり、米国民の健康が危険にさらされる」と警鐘を鳴らした。
自動車・エネルギー業界に広がる波紋と二極化
規制から解放される民間企業の反応は、必ずしも一様ではない。
小規模な石油・ガス事業者や、内燃機関(ICE)部品を供給する団体は、コスト削減と選択肢の拡大を歓迎している。しかし、グローバルに展開する主要な自動車メーカーは、慎重な姿勢を崩していない。
| 組織・企業名 | 主な立場・反応 |
| ホンダ(Honda Motor Co Ltd) | 安定した規制環境を求め、当初は危惧宣告の維持を支持していた。 |
| フォード(Ford Motor Company) | 排出基準の緩和は歓迎しつつも、州ごとに異なる規制が乱立することを懸念。 |
| フォルクスワーゲン(Volkswagen AG) | 政治状況に関わらず、長期的な低排出・効率化への転換方針は維持すると表明。 |
| アメリカ石油協会(API) | EV義務化の終了は支持するが、メタンガスなどの連邦規制は維持すべきとの立場。 |
特に懸念されているのが、カリフォルニア州などの独自規制を持つ自治体との法廷闘争や、地域ごとに異なるルールが混在する「パッチワーク」状態の発生である。多くの企業にとって、数年ごとに政策が180度変わる「振り子現象(ホイップラッシュ効果)」は、長期的な設備投資や研究開発における最大のリスクとなる。
カーボンクレジットと新技術への不透明感
今回の政策転換は、炭素除去(CDR)技術やカーボンクレジット市場にも影を落としている。カーボン180(Carbon180)などの専門機関は、危惧宣告の撤回がCDRの需要を不安定にすると指摘している。
排出規制という「枠組み」があってこそ、除去技術の必要性やカーボンクレジットの正当性が担保されるからである。連邦レベルでの排出上限が曖昧になれば、責任あるCDRと、単なる「形を変えたカーボンオフセット」の境界線が不透明になり、市場の健全性が損なわれる恐れがある。
一方で、国際航空や海運の分野では、異なる動きも見られる。
例えば、国際民間航空のためのカーボンオフセットおよび削減スキーム(CORSIA)について、トランプ政権は公には批判的だが、水面下では米国の航空会社が国際的な規制の乱立を避けるためにCORSIAへの準拠を望んでいるという側面がある。国際海事機関(IMO)が検討している炭素賦課金についても、各国の企業は30年単位の投資スパンで動いており、米国の短期的な政策変更だけで脱炭素の歩みを止めるのは難しいのが実情である。
多角的な視点から見た今後の展望
米国の危惧宣告撤回は、短期的には化石燃料産業や自動車コストにプラスの恩恵をもたらす可能性がある。しかし、多角的な視点に立てば、これは単なる規制緩和ではなく、投資の予見可能性を奪う「激震」である。
欧州連合(EU)などは引き続き厳しい環境規制を維持しており、グローバル企業は米国内のルールだけを見て経営判断を下すことはできない。
投資家は、政策が逆転した際のリスク(座礁資産リスク)を注視しており、サステナビリティデータの開示要求を緩める気配はない。
脱炭素という不可逆的なメガトレンドの中で、米国がリーダーシップを放棄した隙間に、どの国や地域が新たなスタンダードを構築していくのか。カーボンクレジット市場に携わる我々にとって、今はまさに「ルール無き混乱」に備えつつ、本質的な気候リスク管理を再定義すべき時であると言える。


