【キーワード定義】
- 海洋アルカリ化 (Ocean Alkalinity Enhancement, OAE): 海洋にアルカリ性物質を添加することで、大気中の二酸化炭素(CO2)を吸収する海洋の能力を高め、長期的に炭素を貯留する二酸化炭素除去(CDR)技術。
- ライフサイクルアセスメント (LCA): 製品やサービスが原料調達から製造、使用、廃棄に至る全段階で環境に与える影響を定量的に評価する手法。OAEでは、アルカリ物質の採掘・製造・輸送で排出されるCO2と、海洋で吸収されるCO2の収支を評価するために不可欠。
- 風化促進 (Enhanced Weathering): 岩石が自然に風化してアルカリ性を溶出し、CO2を吸収するプロセスを、鉱物を細かく粉砕するなどして人為的に加速させる技術。OAEの一手法と見なされる。
【導入】
これまでのシリーズで探求してきた「生物学的アプローチ」は、海藻などの生命活動を起点とするものであった。しかし、ブルーカーボンには全く異なる次元のアプローチが存在する。それは、地球最大の炭素吸収源である海洋そのものの化学的性質に直接働きかけ、その潜在能力を解放する「化学的アプローチ」である。その筆頭が「海洋アルカリ化(OAE)」だ。この技術は、海洋にアルカリを加えることで、数千年から数万年というスケールで炭素を安定的に貯留する圧倒的な可能性を秘めている。しかし、その実現には「どのアルカリ物質を使うか」という根源的な問いが立ちはだかる。本章では、その選択を科学的に評価する唯一の羅針盤、「ライフサイクルアセスメント(LCA)」を手に、天然鉱物と人工アルカリ物質の真の気候貢献度を比較検討する。
【1. 科学的原理と国際的文脈】
海洋は、自然界の岩石が風化(雨水などで溶け出す)する過程で供給されるアルカリによって、弱アルカリ性に保たれている。このアルカリ性が、大気から溶け込んだCO2を安定した炭酸水素イオン(HCO₃⁻)や炭酸イオン(CO₃²⁻)へと変換し、長期的に貯留する「炭酸システム」の鍵を握っている。海洋アルカリ化は、この自然のプロセスを人為的に加速させるものだ。アルカリ性物質を海洋に添加すると、海水中の水素イオン(H⁺)が中和され、CO2がさらに海水に溶け込みやすくなる化学平衡が働く。これにより、海洋は大気から追加のCO2を吸収する能力を取り戻す。
Global Context (国際動向):
OAEは、その永続性の高さから、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)や米国科学アカデミーなどが、将来の気候変動対策のポートフォリオにおいて重要な役割を果たす可能性がある主要なCDR技術として評価している。一方で、生態系への影響やMRV(測定・報告・検証)の困難さといった課題も指摘されており、世界中の研究機関で小規模な実証実験や影響評価が慎重に進められている段階である。
【2. カーボンクレジット化の論点】
OAEは理論上のポテンシャルは高いものの、クレジット化には特有の、そして極めて高度な課題が伴う。
- MRVの壁: 広大で常に変動する海洋環境において、「添加したアルカリによって、具体的にどれだけのCO2が追加で吸収されたのか」を直接測定することは極めて困難である。化学トレーサー(追跡物質)の投入や、高度な海洋循環モデルを駆使したシミュレーションによる間接的な評価が不可欠となり、MRVコストは生物学的手法に比べて格段に高くなる。
- 永続性 (Permanence) の優位性: OAEの最大の強みは、一度、炭酸水素イオンなどに変換された炭素が、1万年以上の時間スケールで安定して海洋中に存在し続けることだ。これは、Verraなどが求める「100年」という基準を遥かに凌駕し、最高品質の「除去クレジット」として評価されるポテンシャルを持つ。
- LCAの重要性: クレジットとして認められるのは、あくまで「純粋な炭素除去量」である。アルカリ物質の採掘、粉砕、製造、輸送といった全ての工程で排出されるCO2をLCAによって算出し、海洋での理論上の吸収量から差し引く必要がある。このネットの収支がプラスでなければ、プロジェクトは気候変動対策として意味をなさない。
【3. 日本市場の展開と政策環境】
火山国である日本は、アルカリ化の原料となる可能性のある鉱物資源に恵まれている。
Japan Focus (日本市場文脈):
国内には、風化促進に利用可能なかんらん岩などの超塩基性岩が分布している。また、セメント産業や製鉄業から副産物として生じる高炉スラグなども、アルカリ源として利用できる可能性がある。これらの国内資源を有効活用できれば、原料の輸送コストとそれに伴うCO2排出を抑制できる。海洋研究開発機構(JAMSTEC)などの研究機関では、日本近海でのアルカリ化が海洋生態系、特に貝類やサンゴといった石灰化生物に与える影響の評価が進められている。現状、OAEに特化した国の制度はないが、グリーンイノベーション基金などの枠組みで、将来的に研究開発が支援される可能性はある。
【4. 経済的実行可能性とリスク】
LCAの結果は、プロジェクトの経済性を左右する。
- 天然鉱物(かんらん岩など):
- 利点: 資源量が豊富で、採掘コストが比較的安い。
- 欠点: 反応速度が遅いため、効果を発揮するには膨大なエネルギーを使って非常に細かく粉砕する必要がある。この粉砕エネルギーがLCAにおける最大のCO2排出源となる。また、鉱物に含まれるニッケルなどの重金属が溶出し、生態系に影響を与えるリスクがある。
- 人工アルカリ物質(消石灰、水酸化ナトリウムなど):
- 利点: 反応性が高く、即効性がある。
- 欠点: 製造プロセス自体が極めてエネルギー集約的であり、現時点では多くが化石燃料に依存している。その結果、LCAで計算すると、CO2の純除去量がごく僅かになるか、あるいは逆に排出量が上回ってしまうケースさえある。
- コストとクレジット価値: 現状では、どちらのアプローチも「1トンあたりのCO2除去コスト」が非常に高い。しかし、永続性が極めて高いため、創出されるクレジットは高価格で取引されることが期待される。再生可能エネルギーを利用した粉砕や製造プロセスの脱炭素化が、経済性を成立させるための絶対条件となる。
【5. 今後の展望と次ステップへの布石】
海洋アルカリ化を現実的な気候変動対策とするためには、LCAの観点から最も効率的で環境負荷の少ないアルカリ源を選択することが全ての出発点となる。現状では、再生可能エネルギーと組み合わせた天然鉱物の利用に分があるように見えるが、技術革新によっては逆転の可能性もある。
そして、最適な物質を選んだ次に問われるのは、「その物質が海洋の化学システムとどのように相互作用し、いかにして炭素を永久に近い形で固定するのか」という、核心的な化学プロセスへの理解である。次章では、この海洋の炭酸システムの化学平衡にさらに深く踏み込み、アルカリ化が永続的な炭素固定につながるメカニズムを解き明かす。
【ブルーカーボンクレジット創出への接続】
- 認証スキームとの関係:
 LCAは、プロジェクトが気候変動に対して純粋な便益をもたらす(ネットネガティブである)ことを証明するための根幹であり、方法論の承認を得るための最重要項目となる。
- クレジット発行プロセスにおける役割:
 LCAによって算出された「純除去量」が、発行されるクレジットの**量(Quantification)の上限を決定する。その後の海洋観測によるMRVは、この理論値が実際に達成されたかを検証(Verification)**するプロセスとなる。
次ステップとの関係:
本章は、アルカリ化の「入力(Input)」である物質の評価に焦点を当てた。次章では、その入力が引き起こす海洋内部での化学的な「プロセス(Process)」を理解し、それがどのように永続的な炭素固定という「出力(Output)」につながるのかを分析する。
 
							 
		 
				 
				 
				 
				 
				 
				 
				