ブルーカーボン特集:第11章 – DOC膜分離アプローチ ①圧力差でCO2を分離する 物理原理とエネルギーコストの壁

tsutsumi.sota

tsutsumi.sota

「ブルーカーボン特集:第11章 – DOC膜分離アプローチ  ①圧力差でCO2を分離する  物理原理とエネルギーコストの壁」のアイキャッチ画像

【キーワード定義】

  • 直接海洋回収 (Direct Ocean Capture / DOC): 海水中に溶存している二酸化炭素(溶存無機炭素)を、化学的・物理的なプロセスを用いて直接回収する技術の総称。
  • 膜分離 (Membrane Separation): 特定の物質のみを透過させる機能を持つ「膜」を利用して、混合物から目的の物質を分離する技術。DOCにおいては、気体は通すが液体は通さない性質の膜が利用される。
  • エネルギーペナルティ (Energy Penalty): CO2を分離・回収するために消費されるエネルギーのこと。このエネルギーを供給するために排出されるCO2(リーケージ)が、回収量を上回らないようにすることが技術の成立要件となる。

【導入】

前章までで、海洋の化学平衡に働きかけ、大気からのCO2吸収能力を高める「海洋アルカリ化(OAE)」の壮大な可能性と課題を探求した。本章から始まる新シリーズでは、全く異なる思想に基づく技術、すなわち海水という巨大な炭素リザーバーからCO2分子そのものを直接「抜き取る」アプローチ、「直接海洋回収(DOC)」に焦点を当てる。その中でも、日本の産業界が強みを持つ「膜分離」技術を用いたアプローチは、最も実用化が期待される手法の一つである。本章では、その根幹をなす物理的分離の原理と、実用化に向けた最大の壁であるエネルギーコストの本質に迫る。

【1. 科学的原理と国際的文脈】

海水中のCO2は、主に炭酸水素イオン(HCO₃⁻)の形で安定して溶存している。DOC膜分離アプローチの核心は、このイオンを気体のCO2分子に変換し、分離膜を介して回収する二段階のプロセスにある。

  1. 酸性化とガス化: まず、大量の海水を取水し、酸を加えてpHを下げる。これにより、化学平衡が移動し、安定していた炭酸水素イオンが気体のCO2に変換される。
  2. 膜による分離: 次に、このCO2ガスを含む海水を、ガスは通すが水は通さない疎水性の多孔質膜モジュールに接触させる。膜の反対側を減圧(真空)にするか、あるいはスイープガス(空気を吹き込むなど)を流すことで圧力差を生み出す。この圧力勾配に駆動され、CO2ガスは膜を透過して選択的に分離・回収される。一方、海水や塩類は膜を透過できずに排出される。

このプロセスの最大の課題は、海水中のCO2濃度が極めて低い(約2mmol/L)ことである。つまり、わずかなCO2を回収するために、莫大な量の海水を汲み上げ、処理し、また海に戻す必要がある。この「水の移動」に要するエネルギーが、技術全体のコストと炭素収支を決定づける。

Global Context (国際的文脈):

この分野では、米国のCapturaやEquatic、イスラエルのEbb Carbonといったスタートアップが技術開発をリードし、パイロットプラントの建設を進めている。特に、海水淡水化(逆浸透膜法)プラントとDOCを組み合わせることで、取水・排水インフラを共有し、コストを削減するアイデアも検討されている。これらはまだTRL(技術成熟度レベル)が4〜6の中間段階にあるが、気候変動対策の切り札となりうるポテンシャルから、多額の民間投資と政府支援を集め始めている。

【2. カーボンクレジット化の論点】

DOC膜分離法は、エンジニアリングの塊であり、クレジット化の論点も極めて技術的・定量的となる。

  • エネルギー消費とリーケージ: これが最重要論点である。海水を汲み上げる巨大なポンプ、膜の向こう側を減圧する真空ポンプは、大量の電力を消費する。この電力が再生可能エネルギー由来でなければ、発電に伴うCO2排出(リーケージ)が、回収量を轻易に上回り、プロジェクト全体の炭素収支はプラスに転じてしまう。LCA(ライフサイクルアセスメント)において、使用電力のカーボンフットプリントをゼロに近い値で証明することが絶対条件となる。
  • 厳密なMRV: CO2除去量の算定は、プラントの「入口」と「出口」における海水の溶存無機炭素(DIC)濃度と、処理した海水の総流量を精密に計測することで行われる。連続的に流れる大量の水を相手にするため、高精度なセンサーと流量計、そして膨大なデータを管理するシステムが不可欠となる。
  • 膜の劣化と性能保証: 分離膜は、バイオファウリング(生物付着)やスケーリング(無機物の付着)により、時間と共に性能が劣化する。この性能劣化率を予測し、クレジットの算定期間全体にわたって、除去性能が保証されることを示さなければならない。

【3. 日本市場の展開と政策環境】

日本は、DOC膜分離技術の開発と実装において、世界的に見てユニークな強みと課題を併せ持つ。

Japan Focus (日本市場文脈):

東レ、日東電工、旭化成など、日本には海水淡水化や水処理分野で世界トップシェアを誇る膜メーカーが多数存在する。これらの企業が持つ高度な製膜技術、モジュール設計技術、そしてファウリング対策技術は、DOCの性能とコスト効率を飛躍的に向上させるポテンシャルを秘めている。また、火力発電所や工場など、大量の海水を利用する既存の沿岸インフラを活用できれば、初期投資を大幅に抑制できる可能性がある。課題は、再エネ比率がまだ十分とは言えない国内の電力事情と、漁業権などが複雑に絡み合う沿岸域での新規プラント建設に対する社会的合意形成の難しさである。

【4. 経済的実行可能性とリスク】

このアプローチの経済性は、ほぼ「電力コスト」と「膜の寿命」という二つの変数に集約される。

  • OPEX(運転コスト)の大部分が電力料金: CO2除去1トンあたりのコストは、電力料金に強く依存する。安価な再生可能エネルギーを大量に、かつ安定的に確保できるかどうかが、事業の採算性を左右する。
  • CAPEX(初期投資)と膜の価格: 高性能な膜モジュールは高価であり、プラント建設費の大きな部分を占める。技術革新による膜の低コスト化と長寿命化が待たれる。
  • 環境影響リスク: 酸を加えた海水を再び海洋に戻す際の環境影響評価(EIA)は、極めて慎重に行う必要がある。pHの変化が周辺の生態系に与える影響を最小限に抑えるため、排出前の中和処理などが求められるが、これはさらなるコスト増につながる。

【5. 今後の展望と次ステップへの布石】

DOC膜分離アプローチは、その物理原理の明確さゆえに、課題もまた明確である。すなわち、いかにして少ないエネルギーで、いかに効率よく、そして長期間安定してCO2を海水から分離するか。この技術的挑戦の成否は、システムの中核をなす「膜モジュール」そのものの性能にかかっていると言っても過言ではない。その構造、素材、そして設計思想は、エネルギーコストを削減し、経済合理性を確立するための最重要要素である。

次章では、この技術の心臓部である「膜モジュール」に深く分け入り、その構造設計と効率性の関係を解き明かしていく。

【ブルーカーボンクレジット創出への接続】

  • 認証スキームとの関係:
    この技術は完全に新規であるため、VerraやGold Standard等の下で**新しい方法論(New Methodology)**を開発する必要がある。その際、エネルギー消費に伴うリーケージの算定方法と、DIC濃度変化に基づくMRV手法の科学的妥当性が最大の審査ポイントとなる。
  • クレジット発行プロセスにおける役割:
    プロジェクト設計書(PDD)において、プラントのエネルギー効率、使用する電力の由来、そして膜の耐久性に関する技術データを詳細に記述し、プロジェクト期間全体を通じたネットの炭素除去量を定量的に証明することが求められる。

次ステップとの関係:
本章では、DOC膜分離の「原理」と「マクロな課題(エネルギー)」を理解した。次章では、その課題解決の鍵を握る「ミクロな要素(膜モジュール)」に焦点を移し、技術の核心に迫る。