はじめに
気候変動対策が、現在の排出量を「減らす(Reduce)」段階から、過去に排出した二酸化炭素(CO2)を大気中から積極的に「取り除く(Remove)」段階へと移行する中で、究極の切り札として期待される技術が「DAC(Direct Air Capture)」、すなわち「直接空気回収」です。これは、特定の排出源からではなく、どこにでもある「空気」そのものから、薄く広がったCO2を直接回収するという、革新的なカーボンリバース技術です。
本記事では、このDACを「国際開発と気候変動ファイナンス」の視点から深く分析します。DACがいかにして、気候変動対策における「最後の砦」となり、その高い信頼性(Integrity)が新たな気候変動ファイナンスを動員(Finance Mobilization)しているのか。そして、この最先端技術が、将来的に途上国の開発機会や公正な移行(Just Transition)にどのような影響を与えうるのか。その壮大なポテンシャルと巨大な課題を、包括的に解説していきます。
用語の定義
一言で言うと、DACとは**「大気中からCO2を直接分離・回収する、いわば『空気のための巨大な浄化装置』のような技術」**のことです。
発電所や工場の煙突など、高濃度で排出されるCO2を回収するCCS(炭素回収・貯留)とは根本的に異なります。大気中のCO2濃度はわずか0.04%(400ppm)程度と非常に薄いため、DACには、その中からCO2だけを選択的に、かつ効率的に集めるための高度な化学技術が必要となります。回収されたCO2は、地中深くに貯留され(この場合DACCSと呼ばれる)、大気中から永久に隔離されるか、有効活用(DACCU)されます。
重要性の解説
DACの重要性は、他のいかなる緩和策とも異なる、そのユニークな役割にあります。
気候システムを「浴槽」に例えるなら、省エネや再生可能エネルギーへの転換は、浴槽に流れ込む「蛇口を締める」行為です。しかし、これだけでは、すでに浴槽に溜まってしまった水(=過去の排出によるCO2の蓄積)を減らすことはできず、また蛇口を完全に締め切ることも困難です。DACは、この浴槽から直接「排水栓を開けて水を抜き取る」行為に相当します。
IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告書は、世界の平均気温の上昇を1.5℃に抑えるためには、排出削減を最大限に進めた上で、さらに数十億トン規模のCO2を大気中から除去(ネガティブ・エミッション)する必要があると結論付けています。DACは、この不可避な除去を実現するための、最も確実で信頼性の高い選択肢の一つなのです。その役割は主に二つあります。
- ネットゼロの達成: 航空や重工業など、どうしても排出をゼロにできない部門の「残余排出」を相殺する。
- 気候の修復: もし気温上昇が1.5℃の目標を超えてしまった(オーバーシュートした)場合に、大気中のCO2を減らして、気候をより安全な状態に戻す。
仕組みや具体例
DACの技術は、主に2つのアプローチで開発が進められています。
- 固体吸着法(Solid DAC):
- 仕組み: CO2とのみ選択的に結合する、特殊な固体吸着材(フィルター)に大量の空気を通過させてCO2を捕捉。その後、フィルターを加熱(約80〜100℃)することで、純粋なCO2を分離・回収する。
- 代表的な企業: スイスのClimeworks社。
- 液体吸収法(Liquid DAC):
- 仕組み: CO2を吸収しやすい水酸化カリウムなどのアルカリ性液体に空気を通し、CO2を化学的に吸収させる。その後、いくつかの化学プロセスを経て、高温(約900℃)で加熱することでCO2を分離・回収する。
- 代表的な企業: カナダのCarbon Engineering社(2023年にOccidental Petroleumが買収)。
貯留プロセス(DACCS):
回収されたCO2は、パイプラインなどで輸送され、CCSと同様に、地下1000メートル以上の深部にある帯水層や枯渇した石油・ガス田に圧入され、数千年以上にわたって安定的に貯留されます。
具体例:Climeworks社の「マンモス」プラント(アイスランド)
世界最大のDACプラント(2024年稼働)。アイスランドの豊富な地熱エネルギーを利用してプラントを稼働させ、年間最大3万6000トンのCO2を大気から回収。回収したCO2は、現地のパートナー企業によって地下の玄武岩層に注入され、数年で鉱物化(石化)することで、漏洩リスクが極めて低い、非常に永続性の高い貯留を実現しています。
国際的な動向と日本の状況
2025年現在、DACはまだ非常に高コストな技術ですが、その戦略的な重要性から、官民を挙げた大規模な投資が世界的に始まっています。
国際的な動向:
DAC普及の最大の牽引役は、企業による「先行購入契約」です。Microsoft、Stripe、Shopifyなどが設立した「Frontier」という基金は、将来開発されるDACからの炭素除去クレジットを、あらかじめ高値で購入することを約束しています。これは、 nascent(黎明期の)技術に長期的な収益の見込みを与え、民間資金を動員(Finance Mobilization)するための、極めて強力なモデルです。また、米国のインフレ抑制法(IRA)は、DACによる炭素除去に対して巨額の税額控除を設けており、米国内での技術開発とプロジェクト建設を強力に後押ししています。
途上国への影響:
DACは、広大な土地と豊富な再生可能エネルギー(特に太陽光)を持つ途上国にとって、将来的に新たなグリーン産業となり得る可能性を秘めています。しかし、莫大なコストと技術的ハードルから、現時点では「先進国のための解決策」と見なされる側面も強く、その恩恵が公平に分配されるか(公正な移行)は大きな課題です。
日本の状況:
日本政府もGX(グリーン・トランスフォーメーション)戦略の中でDACを重要技術と位置づけ、研究開発を支援しています。三菱重工業などの企業は、独自のDAC技術(液体吸収法)の開発を進めており、海外での事業展開も視野に入れています。
メリットと課題
DACは、他のいかなる気候変動対策とも異なる、ユニークな利点と、巨大な課題を併せ持っています。
メリット:
- 場所を選ばない: バイオマスを必要とするBECCSなどと異なり、基本的にはどこにでも設置可能(ただし、再エネと貯留サイトへのアクセスは重要)。
- 高い信頼性と測定容易性: 除去したCO2の量を正確に測定・検証できるため、クレジットとしての信頼性(Integrity)が非常に高い。
- 土地利用効率: 同じ量のCO2を除去するために必要な土地面積が、植林に比べて格段に小さい。
課題:
- 極めて高いコスト: 現在の除去コストは1トンあたり数百ドルと、他のどの緩和策よりも高価。
- 莫大なエネルギー消費: 大量のクリーンな熱と電力が必要不可欠。DACの大規模な展開は、再生可能エネルギーの供給拡大が絶対条件となる。
- 技術の未熟性と規模: まだ産業としては黎明期にあり、気候にインパクトを与えるためには、現在の規模から数百万倍にスケールアップさせる必要がある。
- モラルハザード: 「将来、DACで回収すればよい」という考えが、現在の排出削減努力を遅らせる「言い訳」に使われるリスク。
まとめと今後の展望
DAC(直接空気回収)は、気候変動との長期的な闘いにおける、人類の最も強力なツールの一つですが、それは万能薬ではなく、莫大なコストとエネルギーを必要とする「最後の切り札」です。
要点:
- DACは、大気中から直接CO2を回収する「炭素除去(ネガティブ・エミッション)」技術である。
- ネットゼロ達成後の「気候修復」にも貢献できる、ユニークかつ不可欠な役割を持つ。
- 非常に高コストだが、企業の先行購入契約や政府の支援によって、市場と技術開発が急速に進んでいる。
- その大規模な普及は、抜本的なコスト削減と、再生可能エネルギーの爆発的な拡大にかかっている。
今後の展望として、DACのコストは技術革新と規模の経済によって着実に低下していくでしょう。その未来は、気候変動ファイナンスのあり方を大きく変える可能性があります。高品質な炭素除去が、信頼性の高い資産として市場で取引されるようになれば、それは新たなグリーン産業を世界中に生み出します。その時、この技術がもたらす恩恵を、先進国だけでなく、豊富な再生可能エネルギー資源を持つ途上国も享受できるような、公正で包摂的な国際協力の枠組みを構築できるか。それが、DACを真に地球全体の解決策とするための、私たちの大きな挑戦となるのです。