はじめに
京都議定書が創設した国際炭素市場を理解する上で、クリーン開発メカニズム(CDM)から生まれるCERと対をなす、もう一つの重要なクレジットが「排出削減単位(Emission Reduction Unit, ERU)」です。これは、京都議定書の第6条に定められた「共同実施(Joint Implementation, JI)」という枠組みから創出されたもので、先進国間の協力に特化したメカニズムでした。
本記事では、このERUを「国際開発と気候変動ファイナンス」の視点から分析します。ERUがいかにして、特定の先進国ブロック内、特に市場経済移行国(旧ソ連邦・東欧諸国)への技術移転と資金動員(Finance Mobilization)を促したのか。そして、その運用を通じて明らかになった市場の信頼性(Integrity)を巡る課題が、今日の国際協力と市場メカニズムの議論にどのような教訓を残しているのか。その歴史的役割と遺産を深く掘り下げていきます。
用語の定義
一言で言うと、ERUとは**「京都議定書の下で、先進国同士が共同で実施した温室効果ガス排出削減プロジェクトから創出された、カーボンクレジット」**のことです。
1 ERUは、1トンの二酸化炭素換算(tCO2e)の排出削減量に相当します。この仕組みの最大の特徴は、参加国が両方とも京都議定書で排出削減義務を負う先進国(附属書I国)である点です。主に、日本や西欧諸国といった投資国が、ロシアやウクライナ、ポーランドといった市場経済移行国(Economies in Transition, EITs)でプロジェクトを実施し、その成果であるERUを獲得するという形で活用されました。
重要性の解説
ERUの重要性は、先進国ブロック全体として、最もコスト効率の高い場所で排出削減を実現するための「内部的な最適化ツール」として機能した点にあります。
これは、ある企業グループ全体のコスト削減目標に例えることができます。グループ内の各社が画一的にコストを10%削減するよりも、本社(投資国)が、設備が古く改善の余地が大きい子会社(ホスト国、特にEITs)の工場を近代化するために投資する方が、グループ全体としてはるかに安く、大きなコスト削減効果(=排出削減)を達成できます。共同実施(JI)は、この近代化投資によって生まれた削減効果(ERU)を、投資した本社が自社の業績として計上できる仕組みです。
このメカニズムは、冷戦終結後の東欧諸国などが抱えていた、非効率なエネルギーインフラを近代化するための、西側諸国からの民間資金動員(Finance Mobilization)を促すという、地政学的な側面も持っていました。それは、気候変動対策と経済の近代化を結びつける、実践的な国際協力の形でした。
仕組みや具体例
ERUの創出プロセスは、ホスト国(プロジェクト実施国)の制度的な成熟度に応じて、2つの異なるトラック(経路)で進められました。
- トラック1: ホスト国が、排出量を追跡し検証するための国内制度を完全に確立している場合。この場合、ホスト国自身の責任でプロジェクトを検証し、ERUを発行できるため、プロセスが迅速でした。
- トラック2: ホスト国の国内制度がまだ不十分な場合。この場合は、国連気候変動枠組条約(UNFCCC)の下に設置されたJI監督委員会(JISC)が、プロジェクトの妥当性確認や検証を監督するという、より中央集権的な手続きが取られました。これは、市場の信頼性を担保するためのセーフティネットの役割を果たしました。
ERU創出の核心:AAUからの「変換」
ERUを理解する上で最も重要な点は、それがCDMのCERのように「ゼロから新たに創出される」のではなく、ホスト国が既に保有する排出枠(AAU:割当量単位)から「変換される」という点です。つまり、ホスト国は、プロジェクトによって達成された排出削減量に相当する自国のAAUを、ERUという別の種類の単位に変換して、投資国に移転します。これにより、先進国ブロック全体の排出枠の総量(キャップ)は変わらず、キャップ内での効率的な再配分が行われる、という仕組みでした。
具体例:チェコにおけるセメント工場の燃料転換プロジェクト
日本の企業が、チェコの古いセメント工場で、燃料として使われていた石炭を、よりクリーンな代替燃料(例:バイオマス)に転換するための技術と資金を提供。これにより達成されたCO2排出削減量が、独立監査機関によって検証される。チェコ政府は、検証された削減量に相当する自国のAAUをERUに変換し、日本の参加企業の口座に移転する。日本企業(または日本政府)は、このERUを自国の京都議定書目標達成のために使用する。
国際的な動向と日本の状況
ERUは京都議定書に固有のクレジットであり、パリ協定の枠組みには引き継がれていません。しかし、その運用経験は、今日の二国間協力のあり方に大きな影響を与えています。
国際的な動向(遺産と教訓):
ERU/JIメカニズムは、先進国間の協力を促進した一方で、CER/CDMと同様、あるいはそれ以上に深刻な信頼性の課題に直面しました。
- 追加性の問題: 多くのプロジェクトが、市場経済への移行に伴う必然的なインフラ更新であり、「ERU収入がなくても、いずれ実施されたのではないか」という強い疑念が常につきまといました。
- 「ホットエア」との関連: ERUの主要なホスト国であったロシアやウクライナは、経済停滞により膨大な量の余剰AAU(ホットエア)を保有していました。JIプロジェクトが、このホットエアをERUという形で「洗浄(ロンダリング)」し、市場価値を与えるための手段として使われたのではないか、という批判が絶えませんでした。
これらの信頼性を巡る課題は、国境を越えた排出削減プロジェクトの成果を取引する際には、厳格な会計ルールと、透明性の高いガバナンスが不可欠であることを国際社会に痛感させました。この教訓は、パリ協定6条2項における「対応調整(Corresponding Adjustments)」という、二重計上を厳格に防ぐためのルールの導入に直結しています。
日本の状況:
日本は、京都議定書の目標達成のために、東欧諸国などからERUを積極的に購入した国の一つです。この二国間でプロジェクトを形成・実施した経験は、CDMの経験と並んで、日本独自の**JCM(二国間クレジット制度)**の設計に大きな影響を与えました。JCMは、JIやCDMの反省点を踏まえ、より迅速で、相手国の実情に即した、信頼性の高い二国間協力メカニズムを目指したものと言えます。
メリットと課題
ERUは、特定の状況下で有効なツールでしたが、その構造的な欠陥は明らかでした。
メリット:
- コスト効率の追求: 先進国ブロック内での排出削減コストを最適化する手段を提供した。
- 市場経済移行国への投資促進: 旧ソ連邦・東欧諸国のエネルギー効率改善や産業の近代化に、西側からの民間資金と技術を誘導した。
- 二国間協力のモデル: 将来の国際市場メカニズムの先駆けとなる、プロジェクトベースの二国間協力の経験を蓄積した。
課題:
- 深刻な追加性の疑念: 多くのプロジェクトの環境十全性が、根本から問われた。
- ホットエア問題との癒着: 市場の信頼性を著しく損なう「ホットエア」の取引と密接に関連していた。
- 限定的な参加国: 協力が先進国間に限定されていたため、より大きな削減ポテンシャルを持つ途上国を対象にできなかった。
まとめと今後の展望
ERU(排出削減単位)は、京都議定書の時代における、先進国間の協力という特定の文脈で機能した、歴史的なカーボンクレジットです。
要点:
- ERUは、京都議定書の共同実施(JI)の下、先進国間の共同プロジェクトから生まれたクレジットである。
- 途上国を対象とするCERとは異なり、ホスト国の排出枠(AAU)からの「変換」によって創出された。
- 市場経済移行国への投資を促進したが、追加性や「ホットエア」を巡る深刻な信頼性の課題を抱えていた。
- その失敗の教訓は、現在のパリ協定6条における、厳格な会計ルールやガバナンスの重要性へと繋がっている。
ERUの歴史は、気候変動ファイナンスのメカニズムが、その意図とは裏腹に、実質的な排出削減を伴わない「抜け穴」を生み出してしまう危険性を、我々に強く警告しています。パリ協定の下で、より野心的で信頼性の高い国際市場を構築しようとする今、ERUが残した教訓の重みを忘れることは、決して許されません。